AMSS Memoirs
2020. 7. 5
『なぜ脳はアートがわかるのか』を読む(3)
カンデル輪読会 第3回で扱った議題や行われた議論,それを踏まえた考察をまとめる。
『なぜ脳はアートがわかるのか』-第4章
第4章では、アートを知覚する過程で起こる具体的な脳のはたらきを見た。具体的には、アートの知覚に記憶・学習が影響を及ぼす仕組みについての理解を還元主義的、すなわち最もミクロな視点からのアプローチで深めていく。アートの知覚機構はもとより、記憶・学習は人そのものを規定しているものと言えるだろう。人間とは何か、あるいは自分とは何者かというこれまで哲学や心理学が主に対象にしてきたテーマを脳科学がサイエンスベース、つまり実験などの科学的な根拠をもとに取り組む時代である。その結果に人間の本質が垣間見えるのかを検討する、そんな章になっている。
ここで、本書で取り上げられているKandelが記憶の神経メカニズムを導く上で行ったアメフラシを利用した実験を軽く紹介する。還元主義的アプローチの取り掛かりとして、彼は神経機構が極めて単純で、学習過程においてその神経回路が明確に一般化できるアメフラシを対象とし、記憶、および学習反応がでた時の神経の使い方についての検証を行った。その結果、神経伝達物質の増減によるシナプス結合の強化が、連合学習によって促進されることを実験的に証明した(つまり学習は神経間シナプス結合の強弱に規定される)。また、ショックを繰り返し行うことによって新たなシナプス結合形成を惹起することを示し、短期記憶と長期記憶の形成過程を明らかにした。(カンデルの研究およびその神経科学的な意義については、丸山隆一先生が執筆されたこちらの記事が非常に勉強になる。)
これは我々のアートの知覚に後天的な経験がいかに重要なものであるかを示唆している。すなわち、学習によって脳内のネットワークを形成しているシナプスは刻々と変化していることを示しており、脳に可塑性があることが容易に推測できるからだ。本書にも記されている通り、楽器演奏者が演奏時に使う体の部位に関する皮質再現領域は通常のものよりも大きい。これは、その演奏者の数えきれない練習による成果であると言える。つまり、遺伝的な「天才」だけではなく、子供の時に積み重なった経験値が演奏家としての実力に差をもたらすのだと考えることができる。これから議論をしていくべき題としては、この後天的経験が成長後の実力に大きく変化をもたらすにあたって臨界期はあるのか、またあるとして絵画や音楽などでも差は見られるのか、ということである。また現在、欧米を中心に、脳外科や神経内科といった医学領域で脳の可塑性を利用した治療が積極的に考案されており(アメリカでは精神科医 N. Doidge によるこちらの本がNYタイムズ・ベストセラーになっており関心の高さを窺わせる)、その一つのツールとして芸術鑑賞という選択肢を模索してみるのも面白い。
最後に我々が確認した本章の重要な点で、先述していないものについて挙げておく。
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本章では「脳」と「心」をほぼ同義で扱っている。
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科学における還元主義において、分子レベルのミクロな観点での検討が有効であるのはそれが人全体の活動に直接的影響をもたらすものである。つまり、相互作用による影響が大きい思考・言語・意識といった分野の研究には限界がある。
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本章で出てくるマティスのカタツムリの絵は芸術の還元主義の例として用いられている。芸術における還元、すなわち対象とするものの要素の選択は、身体の不自由といった制限とも関連づけられる。
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芸術的活動の学習過程について、音楽は再現芸術であり、肉体的な動きの側面も強い。一方で絵画はモチーフやどこに意識を向けるか、が問われている。この点で音楽に絶対音感などの臨界期があるのに対し、絵画にはそういったものが明確には現れてこない。
アンリ・マティス『カタツムリ』(1953)
伯野 芳彦,司馬 康