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AMSS Memoirs

2020. 5. 10

『なぜ脳はアートがわかるのか』を読む(1)

  カンデル輪読会 第1回で扱った議題や行われた議論,それを踏まえた考察をまとめる。

​『なぜ脳はアートがわかるのか』-「はじめに」

本書は,「世界の物理的な本質に関心を抱く科学」と「人間の経験の本質に関心を抱く人文文化」の溝を埋めることの重要性を唱える「はじめに」という章から始まる。そして両文化の接点は,前者に属する「最新の脳科学」と,後者に属する「現代美術」の間に存在すると Kandel は言う。一見したところ,両者の溝は果てしなく深いように思われる。現代美術を担うアーティストが人文的な関心を持っていることは想像に難くないが,それでは脳科学研究者は人文文化に興味を持てるのか?これに対して Kandel は,脳科学は人間存在に関する深遠な問題に答えようとしているのだとし,人文文化の理解への架け橋となれることを主張している。たとえば,Kandel がノーベル生理学・医学賞を受賞するきっかけとなった記憶研究は,世界の理解や自己のアイデンティティの基盤を提供する。つまり,記憶の分子的・細胞的な基盤を理解することは,最終的には「世界とは何か」「自己とは何か」という本質的な問題を理解することに繋がるわけである。もっと言えば,記憶研究が明らかにしようとしている「学習し,学習したことを記憶し,あとで記憶を想起する」という一連のプロセスは,まさにアートに対する反応でも中心的な役割を果たしており,これは脳科学研究が直接アートの理解に結びつく可能性を示している。

本書の中で実際に Kandel が科学とアートの接点として注目しているのは,脳科学と現代美術(の中でも抽象絵画)が共通して持っている還元主義的アプローチである。したがって,我々はまず,抽象絵画と具象絵画をしっかり区別して議論することこれまでの科学において還元主義はどのような立ち位置だったのかを理解すること,という2点の重要性を確認した。後者に関しては,具体的に以下の点を確認した。

  • 「還元主義;reductionism」の由来である「削減;reduce」は,簡単に言えば「概念や法則の多様性を減らす」ことを意味する。

  • 現在の科学では,「還元主義」は否定的に捉えられることも多い。

  • 「還元主義」という言葉の解釈は科学者により様々だが,「説明的還元」「理論還元」がメジャーである。

  • 「説明的還元」は❶「より高次のレベルの生物学的現象は,その一つ下のレベルの構成要素に分析されない限り理解され得ない」❷「最低レベルの構成要素の知見はより高次のレベルの再構成をすべて可能にし,全体は部分の総和以上のものにはなり得ない」と主張する。が,それらに反する研究成果が報告されていくにつれ,「説明的還元」の立場は弱くなってきている。

  • 「理論還元」は「より特殊化した科学の法則と理論のすべては,より基礎的な科学の理論的構成物の論理的帰結である」「この還元が成し遂げられるためには,より特殊化した科学の専門用語のすべてがより基礎的な科学の用語で再定義可能でなければならない」などと主張する。が,そうした考え方の限界が明らかになっていくにつれ,「理論還元」の立場は弱くなってきている。

  • アートの仕組みを脳科学の観点から理解することは,心理学を神経科学に「理論還元」することと並行的に捉えられる。したがって,「心理学は神経科学に還元されるか?」という問題を考察してみることは,我々の議論にいくらか有益になる。

  • 実際に心理学と神経科学の関係を例にとって「理論還元」主義の歴史を辿ってみると,「古典的還元主義 」→「ニューウェーブ還元主義」→「メカニズム的アプローチ」という流れを見て取れる。

  • 最も新しい潮流である「メカニズム的アプローチ」は,心理学的な機能分析がある種のメカニズム的説明であり,神経科学のような構造的な側面は記述しないものの,それを基礎として成立するものだという見方をとる。換言すれば,心理学と神経科学の統合を非還元主義的に行えるという見方である。

  • 以上から,現在の心理学研究では,心理学は神経科学に還元されないという立場で両者を統合しようとする流れが強くなってきていると言える。これは芸術研究の方向性を考える上でも一つのヒントになる。

このような背景を踏まえると,Kandel が本書で還元主義的アプローチを擁護しているのは意外にも思える。しかし,注意深く「はじめに」を読むと,Kandel が従来の還元主義とは一線を画そうとしていることが明らかになる。

[...]「還元主義(reductionism)」という用語は,必ずしも「より限定された尺度での分析」を意味するわけではない。科学における還元主義は多くの場合,より基本的かつ機械論的なレベルで一つひとつの構成要素を調査することで複雑な現象を説明しようとする。個々のレベルで意味を理解することは,より包括的な問い,つまりいかに個々のレベルが組織化され統合化されて,高次の機能が構築されているのかという問いを探求するための道を開いてくれる。かくして科学における還元主義は,一本の道や複雑な場面の知覚にも適用できるし,強い感情を喚起する芸術作品の知覚にも適用できる。それはまた,巧みな筆さばきによって,生身の人間よりはるかに生き生きとした個人の肖像を描ける理由や,特定の色の組み合わせによって,落ち着きや不安や高揚の感覚が喚起されうる理由も説明してくれる。

                   高橋洋(訳)『なぜ脳はアートがわかるのかー現代美術史から学ぶ脳科学入門』pp.13-14

このように Kandel はアート(高次・特殊的)と科学(低次・基礎的)の「統合」を重視することを宣言しており,単に理論や現象を(高次・特殊的)→(低次・基礎的)へと還元すればいいという立場ではないことが分かる。これは芸術研究における本書の位置づけを考える上で,非常に重要な箇所である。Kandel の立場は,Kandel 自身の言葉を借りるならば,「新たな心の生物学」ということになる。

さて,抽象絵画は本当に Kandel の言うように科学的手法を取っているのだろうか。油画専攻の藝大生の意見では,抽象画家は実験的に絵画に手を加えていくという姿勢が顕著に見られ,そのバックグラウンドには絵画に限らない分野横断的な知識があるという。抽象画家の多くが豊富な科学的素養を持っている--しかもそれを実際の芸術制作に活かしている--のだとしたら,抽象絵画と科学の結びつきはやはり大きいということになる。実際には,抽象絵画だけでなく具象絵画の創作においても,構図を考える際に科学的に美しいという根拠のある比率を採用したり,科学的なデータを用いて色の重なりを追究したりすることが行われているようである。そういう意味では音楽もピアノの鍵盤の配置や音階の決定に科学的な知見が取り入れられている,と絵画と音楽の類似性を指摘する意見もあった。

抽象絵画において「還元主義的だ」と言える絵画要素・アイディア・手法が具体的にどのようなものなのかは,さらに本書を読み進め,かつ藝大生とも詳しく意見交換をする中で議論を深めていく必要がある。

​『なぜ脳はアートがわかるのか』-第1章

第1章では,アーティスト集団「ニューヨーク派」がいかにして抽象絵画を創始したかについて理解を深めた。ヒトが洞窟に絵を描くようになってから約3万年という時が経つ。そしてようやく1950年代に入って具象絵画から抽象絵画への転換という大きなイベントが起こる。時間比を考えれば,抽象絵画が生まれたのは本当につい最近なのである。音楽の革新についても同じことが言える。いま見つかっている中で最も古い楽器は約4万年前にも遡るが,西洋音楽において機能和声が確立したのはたったの600年前であり,それがポップスなどの我々が普段慣れ親しんでいる音楽に派生していったのはさらにその後である。芸術にパラダイムシフトが起こるまで,なぜこれほどの年月を待たなければいけなかったのか,そのパラダイムシフトが可能になるまでに何が必要だったのか,こういった問題を考えていく必要がある。そこに芸術の本質が隠れているような気がしてならない。

それを考える上で重要な指摘が本書にいくつか見られることを我々は確認した。

  • 戦後,美術の拠点はパリからニューヨークに移った。現代美術の中心はニューヨークである。

  • ニューヨークには,1930年代後半から1940年代前半にかけて,ヨーロッパの大勢の精神分析家,科学者,医師,作曲家,音楽家,そして後にニューヨーク派を構成することになるアーティストたちが,ヨーロッパの戦乱を逃れてやって来ていた。

  • 当然ニューヨーク派のアーティストは,こうした知識人や先見の明のある画廊経営者からなるグループに大きく支えられていた。

  • 還元主義の開拓者たるモンドリアンは実際,抽象芸術の事実上の宣言書とも言える著作において,次のように述べた。-「メトロポリスでは,美はより数学的な語彙で語られる。だから新たなスタイルが誕生すべき場所は,メトロポリスなのだ。」

  • ニューヨーク派の大志に火をつけたとされる美術評論家グリーンバーグは,抽象絵画を,伝統を破るものだとは見ていなかった。それどころか,彼らの作品を,これまでの絵画の伝統の頂点をなすものと考えていた。

  • ニューヨーク派自身,もともとは1930年代の具象芸術に起源をもつ。

  • 彼らは1930年代に起こった世界恐慌中にも,ニューディール政策による支援を受けて芸術活動を継続することができ,その時に形成されたネットワークは,科学者による対話的で生産的なネットワークに非常によく似ていた。

こうして見てくると,抽象絵画へのシフトが起こるためには,下地となる様々な条件をクリアする必要があったということがよく分かる。藝大生からも「抽象絵画そのものは戦前より存在していたはずだが,概念として確立し得たのは戦後である」という指摘があった。特に重要なものを抜き出してコメントしよう。まず,抽象絵画を具象絵画から連続体をなすものとして捉えなければならない。つまり,具象絵画という伝統なくして抽象絵画の成立はあり得なかったのである。前の世代を土台に新たな世代が育っていくという連続性は,科学研究においても見られる(その一例としてこちらを参照されたい)。次に,抽象絵画のアーティストたちが,純粋に美術だけでなく,科学(の中でも特に医学や数学)や音楽の素養を持っていたということも重要である。これは必然的に,科学や音楽の進展を待たないと絵画の進展もなかったということを意味する。

抽象絵画が多種多様な知識をもった画家により描かれている以上,鑑賞者としても,それなりの背景知識が求められると考えられる。少なくとも日本人は,作品のみに集中し画家のバックグラウンドなどを考慮する姿勢が欠けているという傾向があり,そのため具象絵画など比較的理解が容易な芸術に流行が動きやすいという意見もあった。

​『なぜ脳はアートがわかるのか』-第2章

第2章より,いよいよ脳科学の領域に深く立ち入っていくことになる。ここでも Kandel は,具象絵画と抽象絵画の連続性を意識している。すなわち,「主観的な経験たるアートを,客観的に記述することを目指す科学により研究することができるのか?」という問いに答えるために,まずは具象絵画--自然により近い形で事物を提示する絵画--に対する人間の心的反応を分析しなければいけないという。究極的には,世界そのものを人間がどう認識しているのかという視覚の本質に迫ったのが第2章だと言える。

もともと心理学の領域で「具象芸術は鑑賞者自身の関与なくして成立し得ない」ということが指摘されていた,とKandelは述べている。鑑賞者は「アーティストと協調しながら,カンバスに描かれた二次元の具象イメージを,視覚世界を表す三次元の描写へと変えるのみならず,カンバス上に見たものを私的な語彙によって解釈し,絵に意味をつけ加える」。ウィーン学派の Gombrich はこの現象を「鑑賞者のシェア;beholder's share」と呼んだ(この言葉は本書においてキーワード的に扱われている)。

 

先述のように,この絵画鑑賞の仕方が,視覚が本質的に持っている限界に基づいているという点が極めて重要である。詳しい神経メカニズムは本書第4章で見ていくことになるが,視覚情報の処理は大まかに言えば「網膜に投射された光が電気的シグナルへ変換される→線や輪郭などが別々の情報として脳内を伝わる→ゲシュタルト的な規則および既存の経験に基づいて再構築される→知覚イメージの成立」というプロセスを辿る。さて,この時点で既に視覚の限界が見て取れる。それは,このプロセスに含まれる,

  1. 物体が持つ3次元情報は,網膜に投射された時点で2次元イメージになる

  2. 網膜に投射された2次元情報は,脳による再構築を経て3次元イメージになる

 

という2段階の次元の変換である。次元の異なるものを完全に対応させることは理論上不可能であり,その過程で情報が失われているかもしれないし,はたまた情報が勝手に補われているかもしれない。いずれにせよ知覚イメージは物体そのものを直接的に示すことはできないのだ。この問題は従来「逆光学問題」と呼ばれてきたものである。逆光学問題をより理解するために,我々は様々な身近な例を考え共有した。本書に挙げられている例は「ミニチュア模型のエッフェル塔も目の前まで近づけてみれば,遠方に見える実物のエッフェル塔と見分けがつかなくなる」というものだが,これ以外にも

 ・脳が外界の構造に関して誤った仮定を設けてしまうことで起こる「錯視」

 ・描き方を他者から学ばない限り出来るようにならない「模写」

など,逆光学問題にまつわる事象は色々考えられる。

 

「模写」については興味深い例を紹介しよう。アメリカの有名な教育評論家John Holtは,あるとき小学1年生の女の子2人が絵を描こうとしているところに遭遇した。すると,片方の女の子は木を描き始めた。紙の一番下から2本の線を引いて木の幹を描き,そこから枝葉を描き加えた。ところが,もう片方の女の子はその間何もせず,彼女が描くのをじっと見ていたのだという。Holt は訊ねた。「君は何を描きたいのかね?」女の子は「何を描いたらいいか分からないの」と答えた。そこで Holt はまた訊ねた。「あの子みたいに木を描いてみたらどうかね?」すると女の子は何の恥じらいもなくこう言い放った。「どうやって描いたらいいか分からないの」

 

木を描けと言われたらスルスルと描いていける我々大人からすると,このエピソードは大変な衝撃をもって受け止められるだろう。「木の描き方」など存在するのか?ただ,普段見ている木をそのまま描けばいいではないか。まして,子供が描く絵である。そんな初歩的な描画に特別な能力が必要であるとはとても思えない。しかし,大人がそう思ってしまうのは,実はどこかで(本人が意識しないうちに)「木の描き方」を習得したからなのである。なぜなら,見たものを「そのまま」描くのは,本来的に不可能な行為だからだ。模写とは,3次元の実物を2次元平面に移し替える作業である。この3次元と2次元の対応関係は決して自明のものではなく,それは後づけで人間が決めたものに違いない。そんな後づけのルールをまだ小学1年生の子供が知っている由もなく,彼らには木の幹を描くために2本線を引くことすら無理な芸当なのである。このエピソードは,我々がこれまでどのようにして視覚イメージを形成してきたのかについて,重要な示唆を与えてくれる。すなわち,我々が 3次元イメージの構築を後づけで経験的に学んでいるという可能性である。生まれた後に,自分が属する文化の中で次元の変換方法を刷り込まれている可能性があるのだ。これと合致する記述が本書にも見られる。

[...] ゴンブリッチは,「私たちが見ている世界は,誰もが何年もかけて行っている実験によって徐々に築き上げられてきた構築物なのだ」というバークリーの主張を引用している(Gombrich 1960)。

                        高橋洋(訳)『なぜ脳はアートがわかるのかー現代美術史から学ぶ脳科学入門』pp.31

Holt自身,本エピソードから得た教訓を次のように述べている。

I remembered reading once that many primitive people cannot recognize either drawings or photographs of even the most familiar objects and surroundings. We say, we believe, that a picture looks like life, but it really doesn't. Pictures are flat; life has depth. The business of turning real objects into flat pictures is a convention, like language, and like language, it must be learned.                                        (John Holt, How Children Learn)

そこで昔読んだ話を思い出した。未熟期の人間の多くは,普段どんなに見慣れている物体や世界であっても,絵画や写真で見せられるとそれと気づけなくなってしまうという。我々は「絵・写真は実物とそっくりだ」と言ってしまうし,実際そう信じてもいる。が,本当はそうではない。絵・写真は平面だが,実物には奥行きがある。現実の物体を平面的な絵・写真に変換するという業は,言語と同じく,しきたりで決まったものなのである。そして言語と同じく,後天的に学ばなければならないものなのである。

                                              *太字強調は司馬による

「模写」の考察を通じて,視覚的認知が(先天的能力だけではなく)後天的に習得された文化によっても構成されているという可能性を論じてきたが,もしこれが正しいのだとしたら,人間の存在自体が芸術と同じように連続体的に変化していると言うことができるかもしれない。現代を生きる我々は,先人により「築き上げられてきた構築物」から逃れ得ない。仮に先人とは違うものを構築したとしても,それは必ずや先人から影響を受けたものとなる。これは,模写を含む「芸術」という営みを注意深く観察することではじめて得られる結論である。少なくとも,これを頭で分かっているだけでなく身をもって体験し理解するためには,芸術が必要になると思う。これは芸術の一つの存在意義となろう。

そして,先ほどは「正しいのだとしたら」と仮定したことも,現に科学的実験によって確かめられつつある。中でも「逆転メガネ」の研究は歴史が古い。1897年にはStrattonという研究者が「レンズ式逆転眼鏡」を自ら装着して8日間生活し,その間に視覚体験が変容していったことを報告している。人間は,どんな後天的な視覚体験にも順応していくことができるのである。

ただし,ここで一つ我々の注意を引く問題がある。それは,Kandel 自身も指摘しているように,人間の知覚イメージは個人間で驚くほどの一致が認められるという点である。これは文字通り驚くべき事実である。というのは,「2次元イメージ→3次元イメージ」の変換には必ず脳の創造的プロセスが入り込んでしまう--もはや空想だと言ってよい--以上,網膜に投射されたいかなるイメージも解釈の可能性が無数にあるはずなのだ。一対多の投射であるのなら,理論上,逆光学過程の解は一意に定まらない(いわゆる「不良設定問題;ill-posed question」) 。 にも関わらず,自分の知覚イメージが他者によって見られたイメージと著しく類似してしまうのは,何ゆえなのか。

一つ仮説として考えられるのは,先述の「後天的に刷り込まれる文化」の影響である。同じ文化を共有している人間の間では,構築される知覚イメージもそれほど変わらないかもしれない。しかしこれだけでは説明できない現象が数多く存在する。たとえば(文化的刷り込みが不十分であるはずの)乳児は,早い時期から人の顔を正確に認識できるとされる。

 

ちょうどこの疑問に応えるかのように,Kandel は「ボトムアップ情報とトップダウン情報という二つの概念を考慮することで逆光学問題を解決できる」という生理学者・物理学者Helmholtzの主張を引用し始める。これに関しては,第3章に繋がっていく部分なので次回以降に譲りたい。

 

​最後に,今回の輪読会で特に理解が深まった論点,これから議論を深めていくべき論点を,それぞれまとめておく。

特に理解を深められた点

 

 

 

 

 

 

 

 

議論を深めていくべき点

  • 「ものを見る」という我々大人が当たり前のように成立すると思っている行為が,まったく当たり前ではないということ。

  • 本書があえて還元主義に立つことの意義。

  • 絵画の創作過程において実際に科学的知見が生かされているという事実。

  • 抽象絵画を理解するために,科学的素養を身につけることはおそらく避けては通れない道であるということ。

  • 芸術を科学的に分析する際にも,(錯覚など)身近な例を使った洞察が大いに役立つということ。

  • 抽象絵画において還元主義的と言える絵画要素・アイディア・手法は具体的にどのようなものなのか。

  • 抽象絵画は形式的な質よりも,創作行為という過程にこそ意義があるとされるが,鑑賞者はその創作過程を感知できるのだろうか。もし感知できるのだとしたら,そこにどのような美的経験が成立しうるのか。

  • 絵画を観る際,構築された知覚イメージと,生じる美的感覚やその他の情動の間にはどのような関係があるのか。

  • 抽象絵画の理解には様々な知識や素養が必要とされるが,その点,医学側の人間や音楽側の人間が抽象絵画を鑑賞することにはどのようなメリットが存在するのだろうか。

  • 現代美術と神経科学が還元主義的アプローチを共有しているというのが本書の主張だが,それでは両者の相違点は何なのだろうか。

  • 逆光学過程の解が個人間で驚くほど一致するのに,絵画の捉え方は人により多種多様なのはなぜか。そして「客観主義」と「主観主義」どちらの方が芸術を正しく記述できるだろうか。

  • 音楽において還元主義的アプローチは見られるのか。もし見られるとしたら,絵画における還元主義的アプローチとの間にどのような共通点・相違点があるのか。

  • 視覚には本質的な限界があることが分かったが,聴覚にも何らかの本質的な限界があるのだろうか。それを考慮した上で,絵画と音楽という二大芸術分野の関係はどのように記述できそうか。

  • 以上を踏まえた上での「芸術の存在意義」とはどのようなものか。

司馬 康

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