top of page

AMSS Memoirs

2020. 4. 28

​音楽の"普遍性"を語ることの危険性

芸術には何ができ何ができないのか―これは、芸術を生み出す側も、芸術を鑑賞する側も、真剣に考えなければいけない問題です。芸術が当たり前のように受容されるようになった今、その必要性はますます大きくなっていると言えます。本稿は、芸術の中でも音楽に焦点を当て、芸術の真の力とはいかなるものなのかを科学的な知見も取り入れながら考察するとともに、これからの芸術研究の方向性を提示することを目指したものです。

​世

       世間ではよく「音楽の力」の存在が叫ばれますが,自分はこれに完全には与しません。与しないどころか,

       軽々しく「音楽には普遍的な力がある」などと口にするのは危険だとすら思っています。音楽に慣れ親しん

       でいる者にとって普遍的に"見える"ものは,所詮「自分の中で,ないし自分のいる環境の中で,当たり前のように受け入れられている」程度のものに過ぎないかもしれません。それを,まるで人間一般に適用できるかのごとく語るのは,傲慢と言われても仕方がない行為です。以下に,尊敬する坂本龍一の言葉--SNS上でも大変物議をかもした坂本龍一の取材記事--を引用します。

「音楽の力」は恥ずべき言葉 東北ユースオケ公演を前に 坂本龍一

 [...] 復興を祈る公演などを通じて、「音楽の力」で社会に影響を与えてきたのでは、と質問しようと話を向けると、強い拒否反応が返ってきた。「音楽の力」は「僕、一番嫌いな言葉なんですよ」という。

 「もちろん、僕も、ニューヨークが同時多発テロで緊張状態にあった時、音楽に癒やされたことはあります。だけど『この音楽には、絶対的に癒やしの力がある』みたいな物理的なものではない。音楽を使ってとか、音楽にメッセージを込めてとか、音楽の社会利用、政治利用が僕は本当に嫌いです」

 なぜそうした考えに至ったのか。坂本は、ナチスドイツがワーグナーの音楽をプロパガンダに利用し、ユダヤ人を迫害した歴史を挙げた。「当時を経験していないのにトラウマでね。音楽には暗黒の力がある。ダークフォースを使ってはいけないと子どもの頃から戒めていた」

 [...]

 日本社会ではとりわけ近年、メディアなどが「音楽の力」という言葉を万能薬のように使う傾向がある。「災害後にそういう言葉、よく聞かれますよね。テレビで目にすると、大変不愉快。音楽に限らずスポーツもそう。プレーする側、例えば、子どもたちが『勇気を与えたい』とか言うじゃない? そんな恥ずべきことを、少年たちが言っている。大人が言うからまねをしているわけで。僕は悲しい」

 音楽の感動というのは「基本的に個人個人の誤解」だとも語る。「感動するかしないかは、勝手なこと。ある時にある音楽と出会って気持ちが和んでも、同じ曲を別の時に聞いて気持ちが動かないことはある。音楽に何か力があるのではない。音楽を作る側がそういう力を及ぼしてやろうと思って作るのは、言語道断でおこがましい」

 では坂本は、何のために音楽を奏でるのか。「好きだからやっているだけ。一緒に聞いて楽しんでくれる人がいれば、楽しいんですけど、極端に言えば、1人きりでもやっている。僕には他にできることはないんです。子どもの時からたった1人でピアノを弾いていた。音楽家ってそんなもので、音楽家が癒やしてやろうなんて考えたら、こんなに恥ずかしいことはないと思うんです

                                               (2020/2/2 朝日新聞)

                                                *太字強調は司馬による

音楽シーンを最前線で引っぱってきた世界的ミュージシャンが,音楽について普遍的に"見える"部分が「個人の誤解」だと断言しているという事実。これは重く受け止めなければいけないと思います。普遍性が最も唱えられているであろうクラシック界においてでさえ,ピエール・ブーレーズが音楽の普遍性を頑なに否定しています。(1)   音楽の普遍性について語ろうとする時,そこには常に「自分の中では」とか「自分のいる環境の中では」という限定がついてまわり,結果的には(本人が意識しているかどうかはともかく)自己優位性を主張していることになるという危険があります。そして,場合によってはそれが政治的意図を含んでしまうことすらある--安倍首相が星野源の楽曲をtwitter上で引用したことで,「音楽の政治利用だ」と強いバッシングを受けたことは記憶に新しいでしょう。

正直なところ,自分が(たとえば同時多発テロのような惨事を経験して)本当に精神的に追いつめられたとして,その時に芸術の力を借りて癒しを得ようと思う余裕があるかと言われたら,自信がありません。音楽にそこまで絶対的な力があると言い切れるだけの自信が,自分にはないのです。陶芸家・樂吉左衞門による次の記事を読むと,その感覚はますます強くなっていきます。

私の履歴書 変数「X」 樂直入

[...] 忘れられないのは12年、高谷史郎氏とのX展だ。彼に請われて白い茶碗を素材として提供した。茶碗に投映された画像、あるいは360度の平面に展開した画像など、現代の映像技術を駆使して全く新しい茶碗の世界が開示された。高谷氏はまた、戦争・革命・災害の3つの画像を茶碗の上に投映した。私はそのタイトルを「それでもあなたは茶が飲めますか」と名付けた。3.11を経て社会の在り方への警鐘と、アートの立ち位置の不安定さを問うた。芸術が争乱や災害の前にいかに無力であるか。誰もが考えさせられる悲しい出来事であった。[...]

                                      (2020/2/26 日本経済新聞)

                                           *太字強調は司馬による

本当に芸術のことが分かっている人間は,自分の生み出す芸術が限られた人間にしか届かないかもしれないということを分かっているのだと思います。尊敬する邦ロックバンド・サカナクションは,これまでずっと「大衆性」の問題と闘ってきました。万人受けするような音楽は彼らが目指すものではありません。山口一郎(Voc.)が,「趣味としての音楽」(ライフワーク)と「仕事としての音楽」(ライスワーク)との間で葛藤した経験について,次のように語っています。

[...] 正直、私、スランプなのかもしれない。でも、スランプといっても曲が書けないわけではないんですよ。ずっとタイアップとかフェスでのヘッドライナーを務めることによって、外に向けて作る曲……シーンの中のど真ん中の曲を作らなきゃいけないっていうのがずっと続いていたんですね。なんだかそれに慣れちゃっていたんだよね。"あれ……本当に自分が作りたい曲ってどんなのだったっけな" って。ライスワークとライフワークっていう考え方があるんだけど、ご飯を食べるためだけの仕事と、自分の大義のためにやる仕事。その2種類があると思うんだけど……言い方は悪いかもしれないけど、ライスワーク的な仕事……外に向けて届けるためだけの自分の表現みたいなところに特化していたから、どうしたもんかなーって思っていたんです

                                  (2017/9/7  TOKYO FM『School of Lock!』)

                                               *太字強調は司馬による

星野源による次の記述も,音楽にできることを適切に捉えていると思います。そして彼は,自分の作る音楽が限られた人間にしか届かないということを分かっていながらも,その「限られた人間」を劇的に変えることができるかもしれないという点に,音楽の真の力を見出しています。その真の力の見極めができないと,音楽が政治的意図を含んだ「ダークフォース」に転じうるということも指摘しています。

 今でもたまに、「音楽で世界を変えたい」と言う人がいる。僕は「音楽で世界は変えられない」と思っている。無理だ。音楽にそんな力はない。他の業界に比べて音楽業界は夢見がちな人が多い気がする。スタッフには「元ミュージシャン」とか表舞台に名残がある人も多いから、社会性のない人も多い。そんな人に限って言うのである。「君ら日本を変えられるよ」とかなんとか。

 そんなもんは戯れ言である。国を変えるのはいつでも政治だし、政治を変えるのはいつでも金の力だ。そこに音楽は介入できない。できたとしても、X JAPANの楽曲を使って型破りというイメージを定着させた小泉純一郎のように、ただ利用されるだけだ。

 でも、音楽でたった一人の人間は変えられるかもしれないと思う。たった一人の人間の心を支えられるかもしれないと思う。音楽は真ん中に立つ主役ではなく、人間に、人生に添えるものであると思う。

                                                                                    (星野源『働く男』)

                                               *太字強調は司馬による

これは各アーティストのレベルの問題に止まりません。我々がよく聞く音楽自体が,実は「西洋音楽」という限定を受けているということ--この事実に自覚的である人は残念ながらそれほど多くはないでしょう。生まれてからずっと西洋音楽に晒されてくると,この世界に存在する音楽が西洋音楽しかないように感じてしまうのも無理はありません。そのような人間が「音楽は普遍的だ」と口にするならば,そこには「西洋音楽は普遍的だ」という含意が入り込む危険性が常に存在します。西洋音楽という束縛がいかに強いか,を岡田(2013)が非常に分かりやすく説明しています。

 音楽人気は今もなお全盛である。クラシック音楽の人気の衰退は否めないが、かつてのジャズ・ロック・ポップといった垣根はもはや意味がなくなり、ただ「さまざまな」ポピュラー音楽になった。そして、みな一様に新しく現れるポピュラー音楽を楽しみにしている。新しく現れるポピュラー音楽?果たしてそうなのだろうか。

 あまり悲観的になるのは禁物だろうが、一つ確実に言えることは、我々はいまだに西洋音楽、とりわけ十九世紀ロマン派から決して自由になっていないということ、その亡霊を振り払うのは容易ではないということである。[…] 実際ポピュラー音楽は今なお「ドミソ」といった伝統的な和声で伴奏され、ドレミの音階で作られた旋律を、心を込めてエクスプレシーヴォで歌い、人々の感動を消費尽くそうとしている。ポピュラー音楽こそ、「感動させる音楽」としてのロマン派の、二十世紀以後における忠実な継承者である。

 現代における音楽の隆盛は、映画やアイドル歌手など視覚メディアとの商業的結びつきが成功したからであろう。聴覚的に限定した場合、我々が新しいと勘違いしている音楽は既に18世紀中盤から19世紀に作られたある枠組みから少しも抜け出していないのである。

 [...] 我々はいま「音楽が進化を停めた」ことを自覚する最初の局面にいる可能性がある。何かがもし音楽の進化を停めたというのであれば、理由として考えられるのは音律の数学と我々の身体性である。後者の身体性は説明が容易である。我々の音楽認知能力は耳の周波数の分解能の分しかない。[…] 大多数の人は平均律による音楽の音律の近似で十分のようである。[…] こうした身体性の制約に比べて前者の数学上の制約はあまり知られていないようである。例えば音の振動数の整数比という数学上の制約が、我々の用いることのできる音階と和音を制限した事実はもっと認識されていてよい。

                                                                       (岡田 暁生『西洋音楽史』)

                                               *太字強調は司馬による

語弊を恐れずに言えば,芸術家が自分の作品が「普遍的だ」と主張する場合,それは「普遍的であってほしい」という願望であると言った方が適切なのかもしれません。それはいわば"祈り"です。洞窟画を描いていた頃のヒトが,音楽が畏れ多き自然に届くぐらいの普遍性を持つことを"祈"ったのと同じように。17-18世紀の人間が,バッハの音楽を聴きながらそれが神に届くぐらいの普遍性を持つことを"祈"ったのと同じように。その"祈り"自体は尊い行為かもしれないが,だからといって芸術そのものに尊い力が宿っていることには必ずしもならない。岡田(2013)がロマン派音楽を「感動させる音楽」とカギカッコつきで評しているのには,そんな皮肉を感じずにはいられません。

 

21世紀は間違いなく芸術と科学が結びつきを強める時代になります。音楽は本当に普遍的なのか,もし普遍的な部分があるとしたらそれはどこまでなのか。それを科学によって問い直す必要があります。「芸術は普遍的だから音楽もこうなっているはずだ」という思い込みは絶対に排除しなければいけません。こうした理論的抽象化が先行して,実際の音楽の分析・記述を疎かにするようなことが起きるとすれば,それは心理学者 Kahneman が言うところの「理論によって誘発された盲目」(theory-induced blindness)になります。

 

 

      [...] once you have accepted a theory and used it as a tool in your thinking, it is extraordinarily difficult

      to notice its flaw.                                                                       (Daniel Kahneman, Thinking, Fast and Slow)

      [...] ある理論を一旦受け入れて思考の道具としてしまうと,その理論の欠点に気がつくのは非常に困

      になる。

 

 

音楽が人間にとって普遍性を持っていることを科学的に証明する最も手っ取り早い方法は,音楽の生物学的基盤を明らかにすることでしょう。すなわち,遺伝子変異と自然選択を繰り返す中で,音楽に関係する何らかの遺伝子が人間にとって有利であったため定着した,ということを示せばよいのです。ところが,そういう意味での普遍性が成立し得ないことは,既に進化人類学により指摘されています。Max Planck Institute進化人類学研究所所長のTomaselloは「二重継承理論」を提唱しました。(2)   これは,生物の様々な認知能力は「生物学的遺伝」と「文化的継承」の2つのパターンにより次の世代に受け継がれていくという理論です。両者は「伝承の速度」というパラメータについて決定的に異なります。すなわち,前者は遺伝子変異と自然選択を要するので非常に時間がかかるのに対して,後者は遺伝子的基盤を必要としないため速く伝承されていくのです。注目すべきは,鳥が親を真似して鳴き声を習得するケースなどと同様に,ヒトの言語習得も後者に分類されるということです。(3)   まず,ヒト(=ホモ・サピエンス)がチンパンジーなどの他の霊長類から遺伝子的に分岐したのが600万年前であることから,「生物学的遺伝」にはこのレベルのタイムスパンが必要であることが分かります。それに比べるとヒトが言語能力を発達させた5万年というタイムスパンはあまりに短く,この期間に生物学的遺伝が起こっているとは考えにくいのです。したがって,ヒトの言語習得は「文化的継承」により行われていると考える方が合理的だということになります。それでは音楽はどうでしょうか?類似性が指摘されることの多い「言語」と「音楽」を並置して,これまでの変遷を簡単に図にまとめてみます。(黄字:言語 緑字:音楽)

                       図 1 言語と音楽の歴史

                                       (司馬によるAMSS学生発表『ことばと音楽』(2020/2/14)より引用)

人類最古の楽器とされる笛はおよそ4万年前のものと考えられているわけですが,ヒトが発生してからの600万年という時間の中で見れば,音楽の始まりは言語能力を発達させ始めた時期とほぼ変わらないと言えるでしょう。このあたりの人類学的な研究はこれからも進んでいくと思いますが,いずれにせよ間違いなく言えるのは,音楽が言語と同様に「文化的継承」に分類されるということです。この時点で,「音楽には生物学的基盤があり,人間の生存に有利に働いている」というような議論を展開するのは難しくなってきます。今のところ妥当な主張は,認知心理学者Pinkerの言葉を借りるならば「音楽は進化適応の偶然の産物であり,チーズケーキにすぎない」ということになります。(4)   チーズケーキが美味しいと感じるのは,チーズケーキを美味しいと感じることが適応的だからではありません。あくまで糖分や油分を感知する能力が適応的なのであって,そういった能力があることをうまく利用して美味しく感じるように作られたのがチーズケーキなのです。人間の音楽知覚システムもそれと同じであるとPinkerは言います。生存のための圧力や性淘汰の圧力によって,言語とコミュニケーションのシステムが作られ,人間はたまたまそれを音楽という目的にも利用することを学んだに過ぎません。究極的には,「音楽が人類から失われたとしても,その後の私たちのライフスタイルはほとんど変わらないだろう」というわけです。

 

ましてや,図1の時間比から明らかなように,西洋音楽にはほとんど生物学的基盤はないでしょう。西洋音楽の機能和声が確立したのが,たかが600年前。この和声を自然に感じるための遺伝子が人間の中に既に埋め込まれているとは考えにくいです。「ドミソ」という典型的な和声を自然に感じるあまり,それが普遍的なものだとついつい考えてしまいそうになりますが,これは我々が「ドミソ」を中心とした文化の中で生まれ育ったからに過ぎません。その文化の外にある人間には,我々が不自然だと感じる音が逆に自然に感じられたっておかしくないでしょう。その証拠に,南米アマゾンのある民族は(西洋音楽でいうところの)不協和音を聞いても不快に思わないということが報告されています。(5)   この報告をした論文は非常に丁寧な議論を行っており,快・不快の差が本当に協和・不協和の感覚によるものなのかを調べるために,たとえば,様々な合成音を聞かせて区別する実験を繰り返し行ったり(不協和音を合成した時にできてしまう「音の荒さ」の影響を排除するため),この民族独自の音楽をレコーディングしたものを基に調和・不調和の音楽を作り直して聞かせたり(同じ音楽を何度も聞くことに対する「慣れ」の影響を排除するため)しています。しかし,多くの実験を行っても結局結論は変わらず,西洋音楽のハーモニーを経験せずに育った人間は協和・不協和に対する感覚に差がないということが分かりました。逆のケース--つまり西洋音楽の中で育った人間が不協和音を聞いたらどう反応するか--は言わずもがなでしょう。イエズス宣教師として日本を訪れたルイス・フロイス(1532-1597)が,初めて日本の能を聞いた時に,「単調な響きで喧しく,戦慄を与えるばかり」という印象を書き記したことは有名です。以上述べてきたことは,和音にとどまらず,TDS(トニック-ドミナント-サブドミナント)に代表される和声進行にも当てはまります。小さい頃から「ちゃーんちゃーんちゃーん」いわゆる『お辞儀の和音』(トニック-ドミナント-トニック)を無限に聞かされていれば,TDSを自然に感じないわけがありません。しかしそれも,実はある人間が600年前にこしらえた単なる後づけのシステムにすぎず,決してTDSを自然に感じるように人間の身体が作られているわけではないのです。作曲家・西澤健一先生に言わせれば,これはただの「お約束事」に過ぎないわけです。(6)

ある種の音楽が,どうして自分にはとても心地よく響くのか,その理由を自分はとても知りたいです。が,この疑問に対して「人間はそういう生き物だから」と答えたくなる誘惑は断ち切らなければいけないと思います。ここまでの議論から明らかなように,「人間はある音楽を自然に感じるようにできている」のではなく,「人間は『ある音楽を自然に感じることにしよう』というお約束事の下で生きているから,その音楽を自然に感じないわけにはいかない」のです。先に述べた誘惑は--ダーウィンの進化論の影響力があまりに大きいからだと思いますが--非常に強力なものなのでしょう。たとえば神経科学者Levitinは,全米ベストセラーになった自身の著作の中で,Pinkerの見方に真っ向から対立しようとしています。(7) 音楽は「進化の偶然」なんかではなく,クジャクの美しい尾羽と同様,人間にとっても性淘汰のうえで必要不可欠なものだったと彼は主張します。しかし,その根拠はあまりに薄弱です。我々が西洋音楽を心地よく感じることによって,パートナー選びが少しでも容易になったでしょうか?人類が機能和声を発見したことで,我々の生存率は少しでも高くなったでしょうか?残念ながら,それらを立証できる科学的根拠は揃っていません。

そして繰り返しになりますが,『ある音楽を自然に感じることにしよう』というお約束事は,あくまで自分のいる環境内でしか成立しないということに注意が必要です。我々が思っているほどには「音楽の力」というものは普遍的ではありません。仮に普遍性があるとしたら,それがどこまで言える話なのか,を科学的手法により慎重に見極めていく必要があります。そしてもう一方にある音楽の「チーズケーキ」的要素についても,まだ解明されていないことが沢山あります。「なぜチーズケーキは美味しいのか」「いかにチーズケーキを美味しく食べるか」といった問題について,これからも研究が進んでいくでしょう。もしかすると,ここまでの議論を読んで,こう怒っていらっしゃる方もいるかもしれません。「普遍性がないと言うなら,じゃあ音楽は何をやってもいい世界なのか?そんな馬鹿な話ないだろう!」と。しかしそれは論理の飛躍が過ぎるでしょう。芸術は「何をやってもいい」わけではなく,その発展には必ずある種の制約が伴います。歴史的に見てもそれは明らかです。その制約が具体的にどういうものなのかは,言語と音楽の親近性から,ある程度考察を進めることができると考えています。これに関しては,また稿を改めることにします。

 

 

司馬 康

参考文献

1. Boulez, Pierre, Changeux, Jean-Pierre and Manoury, Philippe (2014) Les Neurones enchantés: Le cerveau et la Musique.

    Paris: Odile Jacob.

2. Tomasello, Michael (1999) The Cultural Origins of Human Cognition. London, United Kingdom: Harvard University

    Press.

3. Heyes, C. M. and Galef, B.G., Jr, eds. (1996) Social Learning in Animals: The Roots of Culture. San Diego: Academic Press.

4. Pinker, Steven (1997) How The Mind Works. New York: W. W. Norton.

5. McDermott, J. H., Schultz, A. F., Undurraga, E. A. and Godoy, R. A. (2016) Indifference to dissonance in native Amazonians reveals cultural variation in music perception, Nature, 535, 547-550.

6. https://www.youtube.com/watch?v=z1YWu8i_Xt0

7. Levitin, D. J. (2007) This Is Your Brain on Music: The Science of a Human Obsession. New York: Plume.

山口一郎の言葉.png
音楽と言語のタイムスパン.png
bottom of page