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AMSS Memoirs

2021. 5. 2

音楽の情動を考える (3)

  「何回聴いてもエモい曲」の秘密を美的体験の階層性に基づいて考察する。

 特定の音楽にハマってしまい半ば中毒状態に陥るという経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。今回は,このような中毒性がどこからくるのかという問題について考察します。

 中毒のような状態になるとその曲を何度も繰り返し聴きたくなってしまうわけですが,この現象はパラドックスを孕んでいるように思います。直感的には,繰り返し同じ曲を聴くと飽きてその曲から離れたくなる方が普通でしょう。その曲の予測可能性が上がれば上がるほど音楽報酬感は下がると考えられるからです。それにもかかわらずその曲を聴き続けたくなるのはなぜでしょうか。

 この謎を解くにあたって,本考は美的体験の知覚的側面と評価的側面それぞれのレベルで何が起こっているかに注目します。(ここまでテーマとしてきた「情動・感情」は評価的側面に相当します。)

1. 美的体験の階層性

 芸術作品に限らず私たちは普段から様々な対象に美を感じます。そのとき,「この曲は憂鬱だ」,「彼女のダンスは優美だ」,「この景色は雄大だ」というように,対象を美的に判断しています。たとえば「この曲は憂鬱だ」という美的判断は,その曲が憂鬱さという性質をもつと述べています。換言するならば,曲という対象に憂鬱さという美的性質を帰属させていることになります。この性質帰属という点は「あのリンゴは赤い」のような色判断と変わりません。この色判断では,リンゴという対象に赤さという色性質を帰属させているわけです。

 ただし,色判断とは決定的に異なる点もあります。それは美的判断が人によって食い違うことが多いという点です。たとえば,片方の人はその曲を「憂鬱だ」と判断し,別の人は「そうでもない」と判断したとしましょう。音楽においてはこのように意見が割れることはよくありますね。さて,この食い違いはどのように理解したらいいでしょうか?

 一つの考えは,美的判断は主観的な意見の表明であって,二人の判断はどちらも正しくも誤ってもいないというものです。この考え方においては,美的判断は他人が口出しできる類のものではない,ということになります。

 もう一つの考えは,美的判断には「正しい」「間違っている」と言える何かしらの基準があるというものです。この考え方に立つと,判断が食い違った二人のうちの片方は--ひょっとすると両方とも--誤った判断を下していることになるでしょう。

 本考では後者の考えを擁護します。そのために,美的判断の正しさは美的知覚の正しさに基づく(・・・★)ということを前提にします。この前提には一定の妥当性があるでしょう。正しい判断も誤った判断も何らかの根拠に基づいて行われているはずですが,その根拠の代表例が(美的体験においては)知覚経験だと言えるからです。これも色判断と類比的に考えると分かりやすいでしょう。たとえばリンゴを見たとき,赤さという性質が意識に現れます。その経験に基づいて私たちは「このリンゴは赤い」という判断を下せるようになります。もし色覚異常などが原因で青色が知覚的意識に上っていれば,「このリンゴは青い」という誤った判断を下してしまうでしょう。これと同じことが美的判断にも言えます。美的判断の正誤は,美的判断の根拠たる美的知覚において,しかるべき美的性質を捉えられたかどうかに依存するでしょう。なお,ここでは暗黙に,美的性質は知覚可能であることを認めていることになります(1)

​ しかし,美的判断のなかには正誤を問えないものもあるような気がします。有名な国際ピアノコンクールにおいても,ベテラン審査員の間で評価が割れるということはよくあります。自分が過去に受けたあるコンクールを例にとると,同じドビュッシーの演奏であるにもかかわらず次のように正反対の寸評を書く審査員がいて,眉をひそめる他ありませんでした。

 音色に関して,一人は変化に富んだ演奏だと判断したのに対し,もう一人は平板な演奏だと判断しています。このように評価が割れた場合,特定の評価のみを正しいとみなし優遇することはできません。ベテラン審査員の評価なら尚更そうです。そこで多くのコンクールでは評点の平均値をとるという手法をとるわけですが,これはいわば評価の正誤を棚上げにした措置だと言えるでしょう。(もし正誤をきちんと問うのなら,せめて特定の評価に重みづけをしてから平均化するなどの措置が必要になるはずです。)

 正誤を問いやすい美的判断と問いにくい美的判断の違いはいったい何なのでしょうか?  美的判断の正誤に関する古典的見解としてたびたび引用されるFrank Sibleyの議論を紹介しましょう。Sibleyによれば,ある種の美的判断は客観性ないし間主観性を備えており,その根拠は問えるものです。そして,「ある種の」という限定があることからも分かるようにすべての美的判断が正誤を問えるわけではなく,たとえば「良い」(good),「悪い」(bad),「素晴らしい」(excellent),「平凡な」(mediocre),「〜に勝る」(superior to),「〜に劣る」(inferior to)といった用語は評価のみを表したものであり,鑑賞者の意見に基づいて任意の対象に適用することが可能です。(2,3)    一方で,「優美な」(graceful),「けばけばしい」(garish),「バランスがとれている」(balanced),「混沌としている」(chaotic),「繊細な」(delicate),「ダイナミックな」(dynamic),「感動的な」(moving),「物憂げな」(melancholy)といった用語は(評価的な要素も備わっているが)記述的要素をもち,鑑賞者の評価だけに基づいて任意の対象に適用できないものです。(2,4)    客観性を問えると言っているのは,こうした記述的要素をもつ判断です。このSibleyの議論にのっとると,前者の美的判断と後者の美的判断を同じ「判断」という言葉で丸め込んでしまうのは憚られます。そこで以下では,後者の美的判断(記述的要素と評価的要素を合わせもつ美的判断)を狭義の「判断」と呼び,前者の美的判断(記述的要素が抜け落ち純粋な評価のみを表す美的判断)を評価」と呼ぶことにします。

 ここで(狭義の)「判断」に絞ってさらに掘り下げて考えていきましょう。美的判断によって対象に帰属させられる美的性質は,色や形といった,それ自体は非美的な低次性質の集まり全体から創発する,あるいはそれらに存在論的に依存すると言われています。(2,4)    たとえば,ある絵画が「繊細である」と言われるのは,特定の色や形,線の集まりを備えているからです。これを発展させて,美的性質がゲシュタルトと類比的に語られることもしばしばあります。(2)    非美的性質は美的性質の基礎となっていると考えられるわけです。(5)   

 ただし,美的性質が非美的性質に存在論的に依存していると言っても,この依存関係を明確に定式化することは難しいです。美的性質を対象へと帰属させる際に,その根拠として「対象は非美的性質Aを含む」といった明確な定義をもち出すことは不可能でしょう。たとえば,ピアニッシモで今にも消え入りそうな音色Aで弾かれた曲は,典型的には「繊細さ」をもちますが,だからといって,そのような特徴をもつすべての作品が繊細さをもつということにはならないですし,逆にその特徴を欠く作品が繊細さをもつこともあるでしょう。つまり,「この曲は非美的性質として音Aを含む」ということは,その曲が「繊細さ」をもつと判断できるための必要条件でも十分条件でもないのです。この点は,同一の美的性質の用語で形容されることが多い二物を比較することでより一層分かりやすくなると思います。たとえば,ピカソの《ゲルニカ》とナイアガラの滝はどちらも「ダイナミックだ」と形容されますが,両者の色や形はかなり異なるうえに,前者のダイナミックさに物理的運動が関わるのに対し後者はそうではないという違いもあります。したがって,ダイナミックさについて「A, B, C, ......といった非美的性質をもつ対象はダイナックという美的性質をもつ」というような必要十分条件を導くことは極めて困難でしょう。このように美的でない低次性質と美的性質とをつなぐ美の一般原理は成立しないという意味で,美的用語は「非条件支配的」なものだ,とSibleyは述べています。

 ここまでの議論を踏まえれば,★で美的知覚という概念を導入したことも自然に思えてくるでしょう。美的判断の根拠を問おうとするとき,それは「対象の非美的性質を知覚し,それをもとにこの対象は○○という美的判断をする条件を満たしているだろうと推論する」というようなプロセスとしては記述できません。なぜなら,「非条件支配性」があるために 一般原理を介して演繹的に推論を行うことはできないからです。そうすると,その対象に「○○だ」という美的判断の根拠を与えるのは,対象がもつ美的性質を知覚することだと考えられるでしょう。

 なお,「非条件支配性」は美的判断以外の文脈で使われる用語にまで敷衍できるかもしれません。というのも,言語一般について非条件支配性が成り立つ可能性が言語学において示唆されているからです。言語学者Labovが言うように,言語理論の中心的な問題の一つとして「カテゴリー化」があります。私たちが言語を使って場面を描写する際にはいつも,その場面に含まれる様々な要素とそれらの関係をカテゴリー化しなければいけません。目の前にあるものの名前を言うとき,「カップ」,「花瓶」,「容器」,「お碗」,「容器」,もしくはもっと単純に「もの」のうち,どの呼び方を選ぶかを決定しなければならないことがあります。あるいは,あるものを基準点(認知言語学におけるLandmark)として別のもの(認知言語学におけるTrajector)の位置関係を述べる際には,その空間関係を「inの関係」,「onの関係」,「atの関係」などとしてカテゴリー化しなければならないことがあります。重要なことは,言語自体もやはり様々なカテゴリーからなる体系だということです。ここで,言語学で提唱されてきたカテゴリー化の手法を2つ紹介しましょう。結論から先に言えば,先に紹介する手法が「非条件支配性」を否定したもの,後に紹介する手法が「非条件支配性」に依拠したものになっています。

 まず古典的カテゴリー観では,カテゴリーは素性の集合によって定義されます。個々の素性は必要条件であり,それらがすべて揃うと十分条件となります。古典的アプローチは,あるカテゴリーに属する成員は何らかの共通性を備えていなければならない--共通性が存在しなければ,そもそもそれらを同じカテゴリーに含める理由がない--という私たちの直観を反映したものになっています。「鳥」というのは,たとえば [羽がある],[脊椎動物である] という素性の結合として規定することができそうです(少なくとも日常会話で支障なく「鳥」を伝達できる程度の「鳥」の定義を考えるならば,このような規定で問題ないでしょう)。そして,この条件を満たすようなカテゴリーの成員である限り,成員の地位はすべて対等ということになります。しかし,多くの研究者がすでに主張している通り,このアプローチは問題を孕んでいるのです。実際には,カテゴリーの成員間に典型性,代表性の差が生じる場合があるということが十分に実証されていて,この事実を古典的カテゴリー観は予測できなくなってしまいます。再び鳥について考えてみましょう。私たちが感じる「鳥らしさ」は,対象とする鳥によってさまざまに変化します。たとえば図1で,赤で囲った鳥に対して感じる「鳥らしさ」と,青で囲った鳥(ペンギン)に対して感じる「鳥らしさ」を比較すると,前者の方が大きいと感じるのが普通ではないでしょうか。このような感じ方の違いを古典的カテゴリー観は説明できないのです。

 

 Roschは,このように欠陥を抱える古典的な理論の代案として,プロトタイプ・カテゴリー観を考案しました。(6この理論はこれまでいくつかの発展段階を経てきましたが,基本的な考え方は次のようなものです。私たちが日常的に用いるカテゴリーの多くは,最もそのカテゴリーの成員らしい事例(プロトタイプ)を中心とし,それと何らかの原理によって関連づけられた事例を周辺的な成員として組み込む,という仕組みで成立している,と考えます。先ほどの例でいえば,赤で囲った鳥が「プロトタイプ」,青で囲った鳥(ペンギン)が「周辺的な成員」ということになります。この理論に立てば,「鳥らしさ」には程度の差があって,その意味を必要十分条件として提示することはできないということになり,先述の古典的カテゴリー観の問題点をちゃんと克服できています。プロトタイプ効果が与えられたカテゴリーの成員は,プロトタイプを中心にした同心円を形成しながら連続体的に分布することになります。

 

 

 

 

 

 

 

 Roschの研究と並行して,カテゴリーの事例基盤理論の可能性を探る研究者もいました。この点は今後の議論で重要になるので,ここで少し詳しく説明しましょう。このアプローチでは,カテゴリーとは単に記憶された事例の集合であるとされます。(7)    ある人にとっての「鳥」のカテゴリーは,「鳥」と呼ばれたことのあるすべてのものの記憶の中に蓄えられることによって出来ている,というわけです。新たな事例はすでに遭遇した事例との類似性に基づいてカテゴリー化されていき,それと並行して,そのカテゴリーの統計的な中核がカテゴリーのプロトタイプとして立ち現れます。この理論を裏付ける実験も報告されています。コンピューター・シミュレーションによって,事例基盤理論が様々なプロトタイプ効果を含め人間のカテゴリー化に関する多くの実験結果を再現できることが示されました。(8,9) 

 「非条件支配性」に基づいたプロトタイプ・カテゴリー観に対して生物学的な根拠を与えることもできるかもしれません。Roschらが強調したように,カテゴリーの機能は,不確実さを最小化し,それによって環境と我々人間の相互作用を促進することにあります。人は,あるもののわずか1つか2つの特性を観察するだけで,それがどのようなものなのかに関して合理的な推論をすることができます。この推論をしたあとは,その後,そのもののさらなる属性について推論することが可能になります。この2段階の推論は人間の生存に有利に働くでしょう。もしあるものが一瞬トラのように見えたとすれば,たぶんそれはトラであり,危険を避けてその場を離れるのが賢明です。この場合,トラだとすばやく認知するのに1段階目の推論が使われ,その場を離れるべきかどうかなど対策を考え始めると2段階目の推論に入ります。他方で古典的カテゴリー観は,このような種類の推論に基づく思考を許さないのです。e というものが Cというカテゴリーの成員であるかどうかを決定する唯一の方法が,「C を必要十分的に定義するすべての特性をe がもっているかどうか」を確認することとなり,カテゴリーの成員資格について判断が下された後には e についてそれ以上言えることは何もなくなってしまうのです。

 少し話が脇道にそれました。第1節の議論をまとめましょう。美的体験には「知覚判断評価」という階層性があります。最後の2つをまとめて(広義の)「判断」というラベルを貼ることも可能ですが,正誤を問えるかどうか,ないし記述的要素を含むかどうかという点で両者を区別することを本節では試みました。また前提として,「知覚」の中に美的性質の知覚が含まれる(つまり美的性質は知覚可能である)ということを確認しました。そのうえで,美的性質の知覚が非美的性質の知覚に非条件支配的に依存していると論じ,このあり方は言語学などで提唱されているプロトタイプ・カテゴリー観とも合致するということを指摘しました。

 なお,上記の階層性は,絶対的な区切りをもつとは限らず,三者が連続体的に存在する可能性があることを断っておきます。「知覚」と「判断」の連続性については,それを支持する脳科学的な知見もあります。図3に示したように,脳には予測信号と予測誤差を伝える階層構造が存在し,階層間でその一貫性が保たれるような仕組みが成立すると言われています。低次の知覚から高次の認知まで,互いに関係しあって首尾一貫した入力情報の解釈がなされているのです。これは,知覚と認知の間に明確な境界がなく,連続性をなしていることを意味します。

 他方,「判断」と「評価」の間の連続性は,「知覚」と「判断」の連続性よりは弱いもの(区別がより明瞭である)かもしれませんが,それでも連続性があることは認めざるを得ないと思います。仮に「知覚→判断」と「評価」が完全に区別可能だとすると,「美的性質は知覚可能である」という前提が崩れてしまうからです。具体的に説明しましょう。一般的に言って,「評価」つまり価値性質に対する反応には,一定の行為を促すという側面があります。音楽を聴いて「良い」(good)という評価を下したのなら,その音楽を聴き続けるという行為が促されるはずです。そして,美的性質が本質的に「評価」を促す性質であるからには,美的性質そのものに一定の行為を促す力が備わっていると考えなければなりません。そこで「知覚→判断」と「評価」を完全に切り離されたプロセスだと仮定してしまうと,いま述べた「行為の促し」という側面は「知覚→判断」のレベルには存在しないことになるので,美的性質は知覚によって捉えられてはいないことになります。この時点で「美的性質は知覚可能である」という前提と矛盾をきたしてしまうのです。実際,哲学界隈でも,「評価」と「知覚」が分けられるかどうか怪しいという主張が既になされています。(10)

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・・・・・

プロトタイプ.png

図 1(西村・野矢 2013 より一部改変)        

図 2 プロトタイプ・カテゴリーとしての「鳥」        

図 3 予測符号化のモデル(吉田正俊先生が作成されたもの,こちらより引用)

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2. 美的体験の評価的側面 -感情と思考-

 第1節で,美的体験の評価的側面は「良い」(good),「悪い」(bad),「素晴らしい」(excellent),「平凡な」(mediocre)などといった言葉で表されると述べました。また,美的体験の評価的側面のなかで「感情」は大きな部分を占めると考えられます。この2つを合わせると,音楽が喚起する感情は言葉で表される類のものだということになるでしょうか?

 この点​については,音楽の情動を考える(1) で間接的な答えを提示しているように見えます。音楽によって引き起こされた聴者の情動は,私たちが日常生活で感じるような「月並みの情動」とは一致しないということを論じました。すると,音楽が喚起する感情に対応する語彙も私たちは持ちあわせておらず,感情を言語化できないということになるでしょう。

​ しかし,ここで注意しないといけないのは,上記の結論はあくまで「言語のなかに語彙が存在するか否か」というレベルの話であるということです。現時点で私たちがその語彙を有していないとしても,今からその語彙を創出すれば「音楽の感情は言語化できる」という結論に一瞬で変わってしまうのではないでしょうか。

 いま議論したいのはそういう話ではありません。音楽が喚起する感情はそもそも言語的な評価を介して行われるものなのか?という問題を考えているのです。この問題を考えるにあたって,まずは感情がもつ思考的な側面を明らかにしようと思います。

 一般に,感情は価値を捉える役割を担います。たとえば山でトラと遭遇した,暗い夜道を歩いている,といった場面で人は恐怖を感じるわけですが,これはその状況に「自分の身に危険が迫っている」という(自分の生命に影響を与えそうな)価値を見出す感情だという風に説明することができます。価値を捉える役割をもつからこそ,脳科学的には感情は報酬回路と密接に関係します(第3節で詳述)。問題は,「価値を捉える」という抽象的な働きが,生理的にはどのようなプロセスとして説明されるのかということです。感情二要因説(こちらで詳述)では,感情は身体反応の解釈であると考えるのでした。有名な「吊り橋実験」であれば,揺れる橋での緊張感に伴う「身体反応」(動悸,手汗など)ないし「情動」に,自分の目の前に若い女性がいたという外因の推論が加わることで,恋愛「感情」が発生した,という説明が可能です。すると感情二要因説は,まず身体反応が起こって,それに対する解釈すなわち思考が後に続くと考えていることになります。一方で--こちらの方が私たちの直感に近い気がしますが--思考が先で身体反応が後に起こるという理論も提唱されています。Lazarusらは,被験者に民族の成人通過儀礼の映像(生殖器を改造するというかなりグロテスクな映像)を見せるにあたって,同じ映像でありながら片方の被験者群には儀式を受ける苦痛を強調するようなナレーションをつけたもの,もう片方の被験者群には文化人類学的な説明のナレーションをつけたものを提示する,という実験を行いました。すると,トラウマを強調したバージョンを見た被験者の方が,自律神経がより強く反応し,同時に不快な感情もより強く感じたそうです。(11)

この結果は,映像への評価という思考がまず先にあって,それが身体反応を引き起こしているという理論を支持するものです。いずれせよ,両者は思考と身体反応が組み合わさったものが感情であると考えている点で一致しています。

 ここで本題に戻りましょう。いま述べた感情の構成要素としての思考は言語化できるものなのでしょうか? 先ほど提示した2つの実験を振り返ると,両者には言語化できるかどうかという点で差があることが分かります。まず「吊り橋実験」の方は,「自分の目の前に若い女性がいるから私は動悸,手汗といった身体反応を起こしているのだ」などと言語化できる類の思考が起こったとは考えにくいでしょう。異性に対する反応は(少なくともこの実験で観察している反応についていえば)もっと直感的で低次なものであると考えられます。次にLazarusらの実験ですが,こちらはそもそも儀式映像に付属するナレーションが言語によってなされている以上,これを理解できるのも言語を使える人だからということになります。すなわち,この実験で感情の違いを生み出したのは言語を介した比較的な高次な思考なのです。このように,言語化できるかどうかは場面・状況によって異なり,感情に関わる思考は必ずしも言語的なものだとはいえないという結論が導かれます。

 恐怖など原始的な感情においては,言語的な思考に基づいていないケースが多いのではないでしょうか。恐怖を担う中心的な脳部位は扁桃体だと言われています。実際,扁桃体病変を有する患者に対して情動を喚起するような視覚刺激を与えた結果,健常時には恐怖を引き起こす刺激に対しての反応が低下したということが報告されています。(12)  しかし恐怖という感情は実は扁桃体以外にも様々な脳領域を巻き込んでいます。眼から入ってきた情報が扁桃体に伝わる経路には2種類あることが知られています。(13)

 

 

 

視覚情報は,まず視床に送られ,その後,1つ目の回路では扁桃体へ直接入力されます。2つ目の回路では,視床に送られた情報が感覚皮質を経由し,それが扁桃体へ入力されます。この際,感覚皮質では,送られてきた情報と記憶に蓄えられている情報の照合が行われています。1つ目の回路は近道なので,2つ目の回路の半分くらいの時間で恐怖を生み出すとされます。近道の回路は,進化の過程で,危険なものに素早く反応できるように発達してきたのでしょう。一方,遠回りの回路は,感覚皮質という言語処理も行われる脳領域を経由しているわけですから,言語的な思考を伴いながらじっくりと危険を判断するために存在すると考えられます。さらに,感覚皮質のなかにも低次から高次まで様々な階層があるため,言語的な思考にも段階があるはずです。以上から,感情が言語を含む度合いはグラデーション的であるということが予想されます。

 第2節の議論をまとめましょう。感情は,身体反応と,価値を捉える思考の組み合わせから成り,思考には言語を含まない低次のものから言語を含む高次のものまで様々な段階のものがあります。どの段階の思考を使うかによって感情も変化するはずです。この点は次の第3節の議論に大きく関わってきます。

恐怖回路.png

図 4 視覚情報が恐怖を喚起するまでの2種類の経路

3. 中毒性のある曲と音楽報酬感

 以上の準備を経て,いよいよ​「何回聴いてもエモい曲はなぜ何回聴いてもエモいのか」という問題を考えていきます。

 これがパラドックスを孕んでいる理由として,曲を繰り返し聴く過程で予測可能性が上がるので報酬感は下がりそうだという想定がありました。パラドックスを解く手っ取り早いアプローチは,「曲を繰り返し聴く過程で予測可能性は上がる」という想定を疑うことです。音楽の情動を考える(2) で触れたように,音楽予測には「contentについての予測」と「contextについての予測」が存在するわけですが,前者を反映する脳波成分であるMMN(mismatch negativity)は記憶や注意の影響を受けにくいのでした。よって,曲の学習が進んで記憶や注意が変動したとしても,contentレベルでの予測可能性はそこまで増加しないのかもしれません。ある意味,何回聴いても脳はある程度驚き続けているわけです。

 しかしcontextレベルの予測は(長期記憶と関係していることを考えても)学習とともに変化するはずですから,このアプローチは弱いと言わざるをえません。そこで本節では,予測可能性とは別の機構によって音楽報酬感が維持(ないし促進)されている可能性を模索します。その過程で,第1,2節で準備した議論も援用します。

 「予測可能性とは別の機構」として提示したいのは,以下の3つです。

   a) 美的性質の知覚の学習が報酬感を変化させる

   b) 過去に報酬感を得たという記憶が報酬感を変化させる

   c) 知覚経験の捉え直しが報酬感を変化させる

a) 美的性質の知覚の学習が報酬感を変化させる

 知覚のなかには,先天的なものだけでなく,後天的に学習されるものもあります。私たちにとってはもはや普通になっている何気ない知覚であっても,実は学習により獲得されたものである可能性があるということに注意しなければなりません。その例として視覚刺激の知覚を挙げましょう。こちらで詳説しましたが,視覚的知覚は意外にも,人間が成長過程で様々な刺激を繰り返しまとめあげる経験を積むことによって実現されている側面があります。そして美的知覚(14) は,視覚的知覚以上に,後天的に学習されている部分が大きいのではないでしょうか。

 この見方をさらに援護するものとして,言語習得との類比に注目したいと思います。第1節で述べたように,私たちが使用する言語はプロトタイプ・カテゴリー観事例基盤理論を反映したものになっています。ある人の頭の中にある「鳥」のカテゴリーは,その人が生まれてから出会った,「鳥」と呼ばれたものすべての集合体が脳内に記録されたものです。新たに出会った「鳥」はすでに遭遇した「鳥」との類似性に基づいて次々とカテゴリー化され,統計的に中核的な「鳥」ほどプロトタイプ的な地位を得やすくなります。ここで,プロトタイプ・カテゴリーはその成員が満たす必要十分条件を挙げることが不可能であるという点で「非条件支配的である」と言えることが重要なのでした。すると,同じく非条件支配的である美的性質も,これまでの人生で「美的だ」というラベルを貼られたものすべての記憶的集合体であるという仮説を立てることが可能になります。美的性質とは学習されたものであるということです

 これを認めるならば,あとは先行研究で示されている学習と報酬感の関連性を指摘すれば a) の仮説は完結することになります。厳密には,音楽が人間に与えるポジティブ感情がいわゆる報酬感と同じ基盤を持っていることを示さないといけないのですが,これはBlood & Zatorre(2001) を皮切りに数々の論文によって裏付けられてきたことなので,議論が楽になります。つまり,ドラッグやセックスの報酬回路を介した学習をめぐる議論を,音楽を繰り返し聴く行為に適用すればよいのです。

 簡単にいえば,ハマった音楽を何回も聴くことは価値を学習する仕組みとみなすことができます。人が何かをするとき,その対象がもつ重要さの度合いが価値です。そして,その価値は対象に対してもつ感情によって決められる割合が高いと考えられます。なぜなら,既に述べたように,感情とは主体が置かれた状況がもつ価値を捉える反応に他ならないからです。

と同時に,価値には「この対象を体験すると○○程度の報酬がもらえるだろう」という予測も関わっています。(16)  たとえば小学生にとっての「学校の先生」の価値というのは,何かいいことがありそうとか怒られそうとかいった先生に対して抱く報酬や罪(=マイナスの報酬)の予測と関連しています。したがって,対象の価値を規定するような感情のなかには報酬感が含まれると言えるでしょう。

 実際その先生に対してどのように振る舞うかを決めるのは意思決定です。意思決定にも2種類あり,直感的意思決定と論理的意思決定があります。前者はなんとなく決めたという類のものや,「これめっちゃイイな!」という感情が決める類のものがあります。となると,音楽を聴こうという意思決定は前者に属すると考えるのが自然でしょう(もちろん条件によっては論理的意思決定となる場合があることは否定しません)。ここでいう「なんとなく」というのは,感情というよりはむしろ情動と呼ぶべきものですから,直感的意思決定を支配するメカニズムとしてDamasioが提唱するソマティックマーカーも一定の説得力をもつでしょう。(15)

 知覚システムを通じて得られた対象の情報に基づき,対象のカテゴリーを認知するのが側頭葉です。たとえば,顔を見て誰かを判断したり,植物や動物,人工物の名前を言えるのは側頭葉のおかげです。そして先述のように,対象が与えられたときに生じる感情によって,対象の価値が得られます。この感情システムと側頭葉の信号が前頭葉で統合され,眼窩前頭皮質で対象の価値カテゴリー(音楽でいえば美的性質に相当が形成されます。また,大脳基底核では,経験を通じて対象の価値を知覚し,そこから得られる報酬を予測します。

 

 

 

 

 さて,報酬回路の中でも予測に話を絞ります。(16)  報酬予測にはどのような信号が使われているのでしょうか。一つには扁桃体・視床下部からの報酬関連信号があります。扁桃体は視床下部と相互作用しますが,これがある意味で価値を計算していることになります。視床下部には糖や塩分,タンパク質,脂肪など,それぞれの血中濃度に反比例するような活動を示すニューロンがあります。ブドウ糖の血中濃度が下がると活動し,濃度が高くなると抑制されるようなニューロンが視床下部の外側部にあります。これにより,どの代謝物が減ってきたかを知ることができます。そして扁桃体のニューロンは,視床下部の情報を塩分や糖分などそれぞれの成分に分類してまとめます。扁桃体は,視床下部の反応を統合して価値を判断しているのです。これは,「これは自分にとってプラスだ」「これをやるとマイナスを被るな」といった価値を決めることで,意思決定や行動を促します。

 報酬予測は経験的学習を通じて可能になりますが,この報酬予測学習においてはドーパミンが重要となります。ドーパミンは,予測していた報酬よりもたくさんの報酬が得られたとき(つまり予測誤差がプラスのとき)に放出量が高くなり,逆に予測していた報酬よりも小さいとき(つまり予測誤差がマイナスのとき)には放出量が少なくなります。そして,予測していた報酬と同じだけの報酬が得られた場合にはとくに変化は見られません。(17)   予測誤差を計算しながら予測誤差が小さくなるように行動の系列を学習していくと,将来,あの音楽に触れたらこういうことが起こる,と正しく予測できるようになります。これは大脳基底核のおかげです。扁桃体や視床下部の情報が大脳基底核ループに入力され,(報酬を予測することで実行した)さまざまな行為--音楽鑑賞においてはほとんど「音楽を聴く」という行為に限定されるかもしれませんが--が強められたり弱められたりすることによって最適な行動系列が学習されます。大脳基底核ループは7つ存在することが知られていますが,感情と密接に関係するのは辺縁系ループと呼ばれており,音楽の学習に関わるのも辺縁系ループである可能性が高いです。

 重要なのは,魅力ある対象に対する学習ではドーパミンが多く放出されるということです。すでに「この曲はイイぞ」と知っている状態でその曲を聴けば,分泌されるドーパミンが増えうるということです。これはまさに中毒性のある曲を何度も聴く状況に対応します。また,シナプス結合の強さを恒常的に変化させることが学習の本質なわけですが,脳内の神経修飾物質であるドーパミンによって学習1回あたりのシナプスの変化が大きくなることも分かっています。良いとすでに分かっている曲を聴いている間は学習がより促進されていると言えます。(・・・☆)

 ここまでは感情(音楽報酬感)が学習に影響を与えるという話でしたが,逆に,学習が感情に影響を与えるという側面もあります。たとえば,最初は嫌悪を感じていた現代音楽を,繰り返し聴くうちに好きになる,といったケースがあるでしょう。これは,嫌いな野菜も繰り返し食べるうちにだんだん馴染んでいくことがあるのと同じです。

 学習と報酬感の関係の概説は以上になります。音楽の学習への感情の影響を論じることには実は特別な理由があります。それは,音楽の聴き方の学習は普通の知覚的学習とは一線を画すものだからです。私たちにとって当たり前になっている知覚も,実は学習により実現された部分があるということは既に触れました。しかし,こうした典型的な知覚的学習と,音楽聴取を含む美的体験のための学習との間には,大きな違いがあります。典型的な知覚的学習が,ある程度学習が進むと知覚のされ方が固定化してくる(たとえば赤く見えていた物体が学習を経るうちに他の色に変化して見えるようになるということはまず起こらない)のに対し,美的体験のための学習は対象の捉え方を様々に変化させ,同一人物であっても場面によって異なる捉え方をもつことを可能にします。この根本的な違いは,美的体験のための学習の方には感情が絡んでいることによってもたらされていると考えます。音楽聴取の可変性は,柔軟に移ろう感情によってこそ可能になっているのです。

 

 a)の議論をまとめましょう。同一の音楽を繰り返し聴くとしても,美的性質の知覚は学習される(ことにより変化する)ものである以上,その知覚に基づく感情も聴く時点により変化します。そして,その変化自体は当然予測できるものではないので,聴者は聴くたび新たな探索的価値を発見することにもなります。これらにより音楽報酬感は維持されます。しかも,☆を踏まえれば,その音楽報酬感は正のフィードバック的に促進される可能性すらあるのです。

b) 過去に報酬感を得たという記憶が報酬感を変化させる

 a) は学習をメインとした議論であり「記憶」は間接的に関わるだけでしたが,b) の議論では「記憶」が報酬感を変化させる因子として直接的な役割を果たします。まずは,今から焦点を当てたい記憶の種類を明確にしましょう。

 「記憶」には,その内容を言葉にして説明できる「宣言的記憶」と,体で覚えるタイプの「非宣言的記憶」があります。前者はさらに,個人的な思い出である「エピソード記憶」と,物事に関する知識である「意味記憶」に分かれます。他方,後者には,技能や癖に関わる「手続き記憶」,ある状況で現れる特定の感情や身体変化の記憶に関わる「レスポンデント条件づけ」などが含まれます。

 上記の定義だけ読むと,「この曲のここがイイんだよ!」のような記憶は一見,「レスポンデント条件づけ」に相当するように思われるかもしれません。しかし,これは音楽を実際に聴取したときに初めて活性化する記憶であることに注意しなければなりません。「レスポンデント条件づけ」として有名なパブロフの犬で考えてみましょう。

 

この実験では,肉(無条件刺激)を与えて唾液を出す(無条件反応)という操作の直前に,音(中性刺激)を聞かせるということを繰り返すことで,音(条件刺激)を聞いただけで唾液が出る(条件反応)ようになります。当たり前ですが,唾液分泌という条件反応が起こるのは音(条件刺激)を聞いた後です。これと同じで,中毒性のある曲に対し快を伴う条件反応が起こるのはその曲を聴いた後です。

 しかし,好きな曲を私たちが聴こうとするとき,それを聴く前から「この曲のここがイイんだよ!」という記憶は活性化しているでしょう。その記憶が活性化するから,その曲をもう一度聴こうと思うわけです。そして,この記憶はまさに文字通り「この曲のここがイイ」という形で言葉にして説明することが可能です。つまり「宣言的記憶」なのです。したがって,以降の議論では,音楽聴取前から活性化している「宣言的記憶」(具体的には「この前この曲を聴いたときはここがイイと思ったんだ」というエピソード記憶)に焦点を絞ったうえで,記憶がどのように音楽報酬感に結びつくかを考察します。

 

 一つに,その記憶が正しいことが実際の聴取で再確認されたときに報酬感を得るということが考えられます。人間は,いまこの瞬間に経験した事柄が,過去に同じ経験をしたというエピソード記憶と結びついたときに,その事柄が自分にとってポジティブな体験であれば,快を感じる傾向があるのではないかと思います。これを裏付ける脳科学的研究はほとんど見当たらないので説得力に欠ける主張ではありますが,経験的には,「懐かしさ」という感情の一部がいま述べた快感に相当するように思います。好きな曲を聴きながら自分のお気に入りの箇所が流れてきたときに「そうそう,ここがイイんだよな〜」と感慨深くなるのを自分は幾度となく経験しているのですが,この感慨はこれまでの聴取経験を想起させるせいか「懐かしさ」に近いものがあると感じるのです。一般的に言って,「懐かしさ」は,(i) いまこの瞬間に経験した事柄が,エピソード記憶に記録された経験済みの事柄と一致する  (ii) 経験済みの事柄のさまざまな付随情報(周囲の時間・空間的環境,そのときの自己の身体的・心理的状態など)が想起される  という2つの条件を満たしたときに惹起される,(基本的には)ポジティブな感情ですが,このうち特に(i)のプロセスを中心としたポジティブ感情が音楽の文脈でも起こっているのではないかと考えられます。「懐かしさ」を感じる体験(ノスタルジア体験)において記憶系の活動と報酬系の活動が関与することを示唆する先行研究はある(18)  ので,先ほど自分が述べた感慨が一般的な「懐かしさ」とどれくらい共通の基盤をもっているのかが争点となるでしょう。今後の研究が待たれます。

 

 次に,音楽の情動を考える(2) で紹介した脳波研究を引き合いにだして議論することも可能です。ERANに反映されるような長期記憶を手がかりにすれば,聴者は来る音に対して注意を増すことができるのでした。注意は感覚信号の精度を高めるので,特に注意が集中する箇所--「ここは以前聴いたときイイと思ったんだよな!」という記憶が鮮明な箇所であるケースが多いと思います--では,以前聴いたときとは惹起される感情の度合い(もしくは種類)が違ってもおかしくないでしょう。これがポジティブ感情であれば音楽報酬感につながります。

c) 知覚経験の捉え直しが報酬感を変化させる

 第1節で論じたように,優美さなどの美的性質は,音量や音程などの非美的性質の集まりが(ゲシュタルト的に)体制化されることで意識に現れ,「知覚」されるのでした。この知覚体制化が過去の経験の影響を受けることは a) の議論のなかで指摘した通りですが,c) ではさらに,知覚における表象のあり方が経験により変化していくという説を展開します。そして,この説は知覚における意識とはいかなるものかという問題と切っても切り離せない関係にあり,自然科学の側から検証を行うためには意識のハード・プロブレムを乗り越えていく必要があります。よって,自然科学にとっては非常に難しい問題になるのは間違いありません。こういう場合でも,哲学は自己洞察から一定の結論を導けるので強いなあと感じます。

 

 

 

 

 

 

 ここで,知覚の表象について論じるときに哲学で鍵となるトピックとして「現象的性格(phenomenal character)」を導入します。これは,意識経験に備わる質的な特徴のことで,よく「その経験をもつことは主体にとってどのようであるか(what it is like)」という表現で特徴づけられるものです。

 意識に備わる重要な特徴の一つに,一人称的観点から知られるということがあります。この考えは,Nagelの「コウモリであるとはどのようなことか」という論文により広く注目されるようになりました。(19)  コウモリは,口から発した音波(超音波)が対象にあたってどのように跳ね返ってくるかを探知することで,その対象がどのような特徴をもつかを知ることができます(反響定位)。さて,我々人間がコウモリの反響定位を体験することは可能でしょうか?たしかに,反響定位を行っている際にコウモリにどういった生理的・物理的出来事が生じているかを知ることはできます。コウモリの口から発せられた音波を拾って音響解析したり,音波を知覚しているときに活性化する脳領域を分析したりすればいいわけですから。しかし,これらはいずれも三人称的な観点から記述される出来事であることに注意しなければなりません。コウモリ自身の観点から反響定位がどのような体験であるのかということは,こうした三人称的な記述のなかには登場していないのです。人間とコウモリがもっている感覚システムは異なるので,コウモリの感覚システムが働くときどういった意識が生じるかは,人間の観点からは知ることができないわけです。もちろん,人間自身の意識も一人称的観点により捉えられます。たとえば,リンゴの赤さを見る場合にも種々の生理的・物理的出来事が生じているはずですが,それに加え,その視覚経験には特有の意識状態(いわゆるクオリア)が備わっているはずです。一人称的に感じられるその赤さ,赤さがありありと意識に現れる感じ,というものがあります。そして,この意識のあり方を「現象的性格」と呼んだわけです。

​ これを踏まえ,さらに「知覚経験の透明性」と呼ばれる現象を導入しましょう。透明性を簡単に説明すると,次のようになります。「自分の知覚経験を一人称的な観点から観察したとき,私たちは知覚されている対象の性質に気づくが,知覚経験そのものがもつ性質には気づかないように思われる」。言い換えると,知覚経験は何の性質ももたない(透明である)ように思われる,ということです。ここで重要なのは,「表象媒体がもつ性質」と「表象内容に含まれるものがもつ性質」の区別です。たとえば,「赤いリンゴ」という文字列は,赤いリンゴを表象している表象媒体です。表象されているリンゴは当然ながら赤さをもっていますが,他方で,この文字列そのものは赤くありません。むしろ,黒いインクで印刷されているため,黒さという性質をもっています。両者の性質は一致しません。一般的に言って,表象するものと表象されるものは,異なる性質をもちうるのです。(20)   同様のことが知覚経験にも言えます。つまり,知覚経験自体の性質と知覚経験によって表象されている対象の性質も異なりうるのです。すると,知覚経験のもつ現象学的な性質は,現象的性格としての知覚対象の性質(表象内容に含まれる対象の性質)で尽くされ,知覚経験(表象媒体)は性質をもたないということになります。

 美的性質の知覚に話を戻します。先ほど「非美的性質の集まりが(ゲシュタルト的に)体制化されることで意識に現れ」たものが美的性質であると述べましたが,この体制化を行っているのがまさに知覚経験であるわけなので,美的性質は知覚対象ではなく知覚経験に属すると考えていることになります。つまり,「対象は知覚されていなくとも最初から美的性質を有している」というような考えはここでは退け,むしろ,対象がもつ非美的性質のゲシュタルト的集合が知覚経験らしいあり方で--いわば美的なモードで-与えられたものが美的性質であると考えていることになります。この考え方を源河(2017) にならって高次モード知覚説と呼ぶことにしましょう。(21)

 

 

 

 

 

 

 

 もうお分かりのように,ここで一つ問題が生じます。高次モード知覚説は,先ほど導入した「透明性」という概念と矛盾してしまっているのです。ついでに先回りして結論を言ってしまうと,両者の衝突を解消しようとする過程で,「中毒性のある曲を何度も聴くプロセス」が「高次モード知覚説に基づいた聴取経験へと近づいていくプロセス」として分析可能であることも見えてきます。したがって,いま生じた衝突はしっかり吟味したいと思います。

 「透明性」が成立することを認めると,現象的な美的性質は対象の性質であるかのように意識に現れていることになります。ところが,高次モード知覚説では逆に,現象的な美的性質は対象の性質ではない,と主張していました。この矛盾を解決するためには片方が片方に譲歩しなければならなりません。ここではいったん「透明性」の側に歩み寄ってみましょう。すると,高次モード知覚説は,知覚経験の性質が対象に投影されている,と主張することになるでしょう(投影説)。しかしこれは,本来対象の性質でないものが対象の性質であるかのように誤って知覚されている(知覚の錯誤説)ということを含意するので,具合が悪くなります。知覚の錯誤説を擁護してしまうと,美的判断は結局のところ全て誤っているのだ,などと主張する羽目になってしまうからです。これは,ピアノの国際コンクールの審査やオリンピックのフィギュアスケートの審査など,公正さが前提となっている芸術競技の存在意義を否定するようなものです。

 したがって妥当なアプローチは,高次モード知覚説を守りつつ,「透明性」を疑うというものでしょう。実は「透明性」の源流としてよく挙げられるムーアの主張においても,「透明性」は絶対的なものではなく,知覚経験に十分な注意を向けた場合には知覚経験自体の性質が見つけられる可能性があるということが既に示唆されていました。(22)   興味深いことに,高次モード知覚はまさに知覚経験の性質に気づける例になっているのです。たとえば,「図地反転」の議論で有名なウサギ-アヒル図で考えてみましょう。

 私たちはこの図を見る際,ウサギ-アヒル図そのものに何の変化がないとしても,この図はウサギに見えたりアヒルに見えたりすると気づけます。そうすると,図に変化がない以上,そうした見え方は知覚経験の特徴であると気づくことが可能でしょう。ここで,「仮にそうだとしても,いまは音楽における美的知覚のような高度な知覚について議論したいのだから,ウサギ-アヒル図の知覚のように美的性質とは無関係の知覚を持ち出すのはナンセンスなのではないか?」という反論があるかもしれません。しかし,ウサギ-アヒル図から見出された知覚経験の特徴というのは,美的性質はなくとも,まさに「高度な」知覚処理が必要な現象学的性質と言えるのではないでしょうか。対象の性質を,色・形・大きさ・距離・音色・音量・音高・におい・味・手触りといった知覚可能性が問題なく認められる「低次性質」と,〈リンゴである〉などの種性質,〈あの人は怒っている〉などの他者の情動,〈何かがない・起きていない〉という不在 ,〈優美である〉などの美的性質  といった知覚可能性がそれほど簡単に認められない「高次性質」とに二分した場合,いまウサギ-アヒル図で問題にした性質は後者に分類されるはずなのです。したがって,これを美的性質と同列に扱うことには一定の妥当性があるでしょう。

 たしかに「図地反転」というゲシュタルト反転の仕組みを知らない場合は,知覚経験に注意を向けるためには,知覚対象がもつ低次性質に注意を向ける他ないのかもしれません。ですが,その仕組みを知っているのなら--ムーアの言葉を借りると「知覚経験に十分な注意を向け」ているのなら--,対象の低次性質だけでなく,知覚経験の特徴としての現象的な高次性質に気づくことができると考えられます。ここで知覚の錯誤説も退けられることを念のため確認しておきましょう。知覚経験の性質に気づいた主体は,その性質を間違ったものに帰属させているわけではありません。主体は,現象的な高次性質が知覚経験の特徴だということに,まさに気づいているからです。

 さて,本題に戻ります。ムーアの言うところの「知覚経験に十分な注意を向けた場合」というのは,音楽聴取に置き換えていえばどのような状況に相当するでしょうか? それは「好きな曲を繰り返し聞いた結果,自分自身のその曲の聴取経験に対する分析が深くできるようになっている状況」なのではないでしょうか。またその状況は,ここまでの議論から「高次モード知覚が成立している状況」であるとも言えるでしょう。だとしたら,「中毒性のある曲を何度も聴くプロセス」は「高次モード知覚説に基づいた聴取経験へと近づいていくプロセス」として分析可能であるということになります。たしかに聴き始めの頃は,その曲を聴いた衝撃に押されて,知覚された美的性質をすべてその曲に帰属させようという向きが強いかもしれません。しかし,その曲を繰り返し聴くなかで馴染んでいけば,「私は盛り上がったあとに反復する下降形をイイと感じやすいみたいね」とか「僕はラフマニノフの半音階の使い方に特に美しさを見出すようだな」とかいった風に,美的性質を知覚対象ではなく知覚経験に属するものとして捉えられるようになると考えられます。

 このように美的性質の帰属先がシフトしていくということは,音楽の聴取経験に対して新たな探索的価値を見出すということに他なりません。これが音楽報酬感につながるわけです。

a) 〜 c) の総括

 c) で提示した音楽報酬感のあり方は,音楽を聴くという一見なにげない知覚経験を捉え直す過程で生まれるものであるという点で,かなり高度な感情であることは間違いありません。繰り返しになりますが,「私は盛り上がったあとに反復する下降形をイイと感じやすいみたいね」とか「僕はラフマニノフの半音階の使い方に特に美しさを見出すようだな」とかいった言語的​思考​に基づいた感情であると言っていいでしょう。ここで,第2節で考察した「感情」のあり方が頭をかすめます。他方で a) と b) で提示した感情は c) ほど高度ではないように思えるのではないでしょうか。

 感情は人間以外の動物にも備わっていますが,高度な感情になればなるほど「人間らしい感情」と言えると考えられます。生物学的にはたしかに,c) はいかにも「人間らしい感情」だということが言えそうなのです。それは,次の記述から明らかとなります。

       There is [...] one extremely important difference between human and non-human intelligence,

     a difference which distinguishes us from all other species. Unlike the spider, which stops at web

     weaving, the human child ― and, I maintain, only the human child ― has the potential to take its

     own representations as objects of cognitive attention. Normally, human children not only become

     efficient users of language; they also have the capacity to become little grammarians. By contrast,

     spiders, ants, beavers, and probably even chimpanzees do not have the potential to analyze their

     own knowledge.                         (2000年度  東京大学  前期日程 第1問(A))

        [...] 人間の知能と人間以外の種の知能との間には極めて重大な違いが存在する。人間を他のすべての種

     と区別する違いだ。巣を張ることにとどまるクモとは違って,人間の子供は--人間の供だけが,と

     あえて言っておこう--自分の概念作用を認識的注意の対象とする潜在能力を持っているのである。

     通常,人間の子供は単に言語をうまく使えるようになるだけでなく,ちょっとした文法学者になる能力

     も持ち合わせている。これとは対照的に,クモやアリやビーバー,そしておそらくチンパンジーでさえ,

     自分の知識を分析する潜在能力を持ってはいないのである。

 人間も蜘蛛もチンパンジーも複雑なことをやってのけるけれども,自分がなしたその複雑なことを注意・関心の対象に据えて分析することができるのは人間だけだ,という趣旨の文章です。高次モード知覚説が描き出した「好きな曲を繰り返し聞いた結果,自分自身のその曲の聴取経験に対する分析が深くできるようになっている状況」というのは,まさにここでいう take its own representations as objects of cognitive attention に相当するのではないでしょうか。高次モード知覚説は,人間だからこそ達成できる知的能力を浮き彫りにしているのです。それは当然,人間の知的活動の様々な場面に活かされています。たとえば哲学者のウィトゲンシュタインの「アスペクトの閃き」をめぐる議論は,まさに高次モード知覚説を体現しているように思います。木の枝が不規則に伸びて重なり合っているだけに見えた絵のなかに,突然,人の姿や顔が隠されていることに気づく。ピカソの抽象的な絵画を見て,最初は全く判然としなかったが,不意に一人の印象的な人間の輪郭が生き生きと立ち現れてくる。こういう一瞬の体験をウィトゲンシュタインは「アスペクトの閃き」と呼び,様々な種類の閃きを精査しつつ互いの違いを比較していきました。その議論が自己解釈的および自己相似的(入れ子的)な構造を持っている点がウィトゲンシュタインの特異性であると哲学者・古田徹也は述べていますが,それはつまり高次モード知覚的な構造を持っているということに他なりません。

        [...] ウィトゲンシュタインは,「アスペクトの閃き」という体験そのものに多大な関心を向けながら,

     同時に,多種多様な「アスペクトの閃き」を具体的に並べていく作業を行っている。それは,様々に

     異なる「アスペクトの閃き」の間の家族的類似性を看守するという,それ自体がひとつの「アスペク

     トの閃き」であるような体験を準備する作業なのである。

                                 (古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』)

 

 かくして,音楽鑑賞は哲学と同じように,人間がアスペクト(=ものの見方)の入れ子構造を手にする土台を用意してくれます。「芸術は心を豊かにする」という今や形骸化しつつある言説が,実は,哲学が心を豊かにすることと同じくらい説得力を持つことがお分かりいただけたのではないでしょうか。

図 5 対象を価値づける仕組みと脳内経路(Dranias et al. 2008 より作成)

価値づけ_脳回路.png

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pavlof.jpeg

図 6 パブロフの犬の実験(こちらより引用

意識_wikipedia.png

図 7 意識のハード・プロブレム(Wikipediaより引用

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図 8 高次モード知覚説

高次モード知覚.png

図 9 ウサギ-アヒル図(Fliegende Blätter 1892)

図地反転.jpeg

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司馬 康

註と参考文献

1. 美的性質は高次性質(知覚可能性がそれほど簡単に認められない性質)の一つであり,その知覚可能性には議論の余地があるだろう。詳しい議論は 源河, 2017 を参照。 

2. Sibley, F. (1965) "Aesthetic and Nonaesthetic", Philosophical Review 74(2): 135-59.

3. Sibley, F. (1974) "Particularity, Art, and Evaluation",  Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary Volume 48: 1-21.

4. Sibley, F. (1959) "Aesthetic Concepts", Philosophical Review 68(4): 421-450.

5. 図9に示したウサギ-アヒル図は,非美的性質のゲシュタルト知覚の説明としてよく使われるものである。この図はアヒルに見えたりウサギに見えたりするわけだが,そうした見え方の反転があるときに,図を構成する点や線,色の濃淡といった特徴そのものに変化は生じていない。何が変わっているかというと,図のそれぞれの部分がどのような全体としてまとまるか,そのまとまり方である。このように,ゲシュタルトは,部分と全体の関係の知覚が変化するのに応じて変容するものなのだ。

6. Rosch, E. (1975) Cognitive representations of semantic categories. Journal of Experimental Psychology: General, 104: 192–233.

7. Medin, D. L., and Schaffer, M. M. (1978) Context theory of classification learning. Psychological Review, 85: 207–38.

8. Hintzman, D. L. (1986) “Schema abstraction” in a multiple‐trace memory model. Psychological Review, 93: 411–28.

9. Kruschke, J. K. (1992) ALCOVE: An exemplar‐based connectionist model of category learning. Psychological Review, 99: 22–44.

10. De Clercq, R. (2008) The structure of aesthetic properties. Philosophy Compass, 3(5): 894-909. 

11. Lazarus, R. S. and Alfert, E., (1964) Short circuiting of threat by experimentally altering cognitive appraisal, J Abnorm Soc Psychol, 69: 195.

12. Cahill, L., Babinsky, R., Markowitsch, H. J., and McGaugh, J. L. (1995) The amygdala and emotional memory. Nature, 377(6547), 295–296.

13. LeDoux, J. (2003) The emotional brain, fear, and the amygdala. Cell Mol Neurobiol. Oct;23(4-5): 727-38.

14. この言い方はもちろん,美的性質が知覚可能であるということを前提にしている。詳しくは第1節を参照。

15. Damasio, A. (1994) Descartes' error: Emotion, reason, and the human brain. New York, NY: Quill.

16. ここでいう「予測」というのは,先ほどの予測可能性における「予測」とは意味が異なることに注意。「予測誤差」について,低次な感覚処理的な予測誤差 (Prediction Error) と高次な報酬量の報酬予測誤差 (Reward Prediction Error) を区別して考えるべきだということは以前から指摘されている (Hansen et al., 2017Fleurian et al., 2019)。

17. Schultz, W. Dayan, P. & Montague, P. R. (1997) A neural substrate of prediction and reward. Science, 275: 1593-1599.

18. Oba, K., Noriuchi, M., Atomi, T., Moriguchi, Y., and Kikuchi, Y. (2016) Memory and reward systems coproduce 'nostalgic' experiences in the brain. Soc Cogn Affect Neurosci. Jul;11(7): 1069-77.

19. Nagel, T. (1979) "What is it Like to Be a Bat?" in Mortal Questions, Cambridge: Cambridge University Press, 165-180.

20. Harman, G. (1990) "The Intrinsic Quality of Experience", Philosophical Perspectives 4: 31-52.

21. 源河, 亨. (2017)『知覚と判断の境界線:「知覚の哲学」基本と応用』. 慶應義塾大学出版会.

22. Moore, G. (2000) "Truthmakers for Negative Truths",  Australasian Journal of Philosophy 78 (1): 72-86.

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