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AMSS Memoirs

2021. 2. 28

AMSS Genomeグループ (4)

  AMSS Genomeグループの第4回ミーティングで扱った議題や行われた議論,それを踏まえた考察をまとめる。

問題提起

芸術の存在意義に関する議論は絶えない(特にコロナウイルス含む疫病・災害等の非常時)。

 

目的

「情報」としての芸術をより深く理解するために,「情報」の本質を追究する。

 

メンバー

ゲノムと芸術の関係に興味があるメンバー

 

具体的な目標

・「自己」を哲学的に再分析する。

・「自己」の分析を踏まえ,「生」および「死」を哲学的に解釈する。

・「自己」「生死」をめぐる哲学的な議論と生物学的な議論の接点を探る。

 今回は次の本を紹介した。

木村敏_生命.jpg

 この本は,「自己とは何か」から「生と死とは何か」へと考察を広げたものである。以下,本の内容を概観しつつ,それと関連するメンバーによる議論を整理してみたい。

《​第一部  心身相関と間主観生》について

 1. 最初の疑問提起 -主観・主体とは何か?それは Genomeグループの議論とはどう関わるか?-

 木村敏(b.1931-,精神医学者)の考えは,「意識」=「主観」がなければ「情報」は成立しないのか?という視点に基づいていることから,以前 Genomeグループで議論された そもそもゲノムが伝える「情報」とは何なのか?という疑問へのアプローチとなる。

 まず木村は,主体・主観という翻訳語の語源を辿る。

    ・Subject/subjekt:英語/ドイツ語

    ・Subjectum:ラテン語

    ・Hypokeimenon:ギリシャ語

 下に置かれたもの,基礎になるものという根本的な意味がそれぞれに潜んでいる。カントは対象を認識するための基礎となる存在のことを「主観」(subjekt) と呼んだ。その後のマルクス主義や実存主義は,認識論よりも実際的な,個はどのようにあるべきでどのように世界に働きかけるべきかといった問題を重視した。そのとき「実践的行動の下に置かれる」存在として同じsubjektを用いたが,日本の哲学者たちは翻訳の際に同じ「主観」で訳すことの妥当性を疑った。そこで実存主義以降のsubjektは「主体」と訳そう,ということになった。木村は冒頭で,この違いを説明しつつも,日本語で「主観」「主体」と言った場合に両者とも結局は同じものを示している,という点を強調している。Genomeグループで議論する場合には,「主体」を「自己」という言葉に置き換えることができるだろう。さて,木村の考えは我々の議論とどう関係するのか。ゲノムは「自己複製」という能力を持っているわけだが,その子細が明らかになっていくにつれて複製される自己/非自己の境目とはなんなのかという問いにぶつかる。よって木村の議論は有益だと思われる。これを最初にメンバーと確認した。

 2. ヴァイツゼカーの「主体」-相即/私的間主観性-

 従来の「主体」は前述のように短く定義することができるが,木村の思想に大きな影響を与えた人物としてヴィクトール・フォン・ヴァイツゼカーの認識が召喚される。ヴァイツゼカーは b.1886 - d.1957, ドイツの医学生理学者, 「ゲシュタルトクライス」等の著作で知られる。彼の定義する「主体」はカント的でもなく実存主義的でもない。彼の定義する「主体」とは,カントによる「認識論的主体」と,それを囲む環境との間にある「相即」(独:Kohärenz)のことである。「相即」とは,元は仏教用語で,「事物の働きが自在に助け合い融け合っていること,二つの物事が密接に関わり合っていること」を指す。もっと言えば,「認識論的主体」それ自体ではなく,「相即」つまり「複数の認識論的主体の間」こそが「主体」の本質的な定義になりうるのでは?ということだ。後者--物理的身体と環境との境界そのものとしての「相即」つまり「差異」そのもの--は新しい「主体」の定義として重要なので,ここでは「相即的主体」と呼ぶことにする。

 「相即的主体」はまた,現象学者やメルロ=ポンティによって作られた「私的間主観性」という概念と親和性を持つ。私的間主観性は,公共的間主観性と対立する。「間」主観性は,各々の主体性をまとめて客観性を得るため,複数の主観性が共有する指向性のこと。公共的間主観性といえば,社会の秩序を保つためのルール,パブリックな行動や認識・道徳のことである。それに対して私的間主観性は,ごくプライベートな痛みの感覚,喜怒哀楽の感情など,親密な・共生的な関係にある他者との間で共有されうる現象を説明する概念である。家族,恋人,その他の名付けられない関係であっても,私的間主観性は観察されうる。公共的間主観性が純粋に意識の指向性のみに関わる主観性だとすれば,私的間主観性はむしろ複数個体が身体的に生を共有していることに関わる主観性であると言える。その意味で,メルロ=ポンティはこれを「間身体性」とも言い換えている。相即的主体と私的間主観性はどちらも,「あいだ」そのものが主体性を帯びるという点において共通する概念である。

 3. 二重主体性 -境界はどこにあるか?-

 さらに木村は,主体には二つの種類があると展開する。「集団的主体性」と「個別的主体性」である。まず後者は,従来の主体つまり対象の対立観に基づく性質のことである。もちろんこの存在は否定しようもなく,確かに「わたし」と「あなた」は絶対的に違っている。そのことを「個別的主体性」と呼ぶ。一方「集団的主体性」とは,複数の個体が構成するグループが持つ主体性を指す。人間で言えば,個人は,家族,友人関係,職場,…… と様々な規模のグループを形成して日々を過ごしている。この主体性を生物一般に敷衍すると,鳥類や魚類,アリやハチが群れの一つの生き物のように統制された動きをする,というようなイメージになろう。植物についても,やはり同種個体が集まって群生していることが多い。人間と生物一般どちらの場合でも,集団は全体的な環境との間で常に「相即」を保ちながら行動を変化させている。再び視点を個体に戻すと,このように個体は個体性と集団性の二つの性質を不可避的に持ち,それぞれの主体性を生きていると言うことができる。よって,先ほど説明した「私的間主観性」は「集団的主体性」と同義ということになり,唯一の違いは,前者は人間のみに対して使うということである(その理由は 4.主体的身体  で説明される)。

 ここで浮かぶ疑問が,一体「集団的主体」と「個別的主体」という概念では,どこからどこまでが主体で,どこから先は主体ではないものになるのか?というものだ。「相即」の説明に立ち返るならば,「境界」とはどこか?ということだ。「個別的主体」は,私たちがいかにも直感的に思い浮かべそうな皮膚等の物理的表面を「境界」とすることはできない。もちろん私たちは皮膚・網膜・鼓膜などで外界からの刺激は受け取っているが,感受された情報がさらに神経を通って脳に行き,これまでの記憶・経験・個人的好みや習慣といった過去からの情報も合わせて情報処理することで初めて「相即」として成り立つからだ。表面だけを取り出してそこで「相即」が起こっていると言うことはできない。また,外部環境のみならず内部環境も「相即」の対象となりうる。生物が外界から栄養を取り入れるのは,餌が見えたからというよりむしろ空腹だったからである。それでは何が「境界」なのか--それは主体それ自身の存在のことである。これは「相即」の説明のループに聞こえるかもしれないし,肩透かしに聞こえるかもしれない。しかしこのような非アリストテレス的論理が木村の主張である。生命は,人間の直感に沿うアリストテレス的論理(AはA自身と等しく[同一律],Aは非Aでなく[矛盾律],Aでも非Aでもないものは存在しない[排中律])を超越するという。この逆説に関しては,第二部の 2.相即の場所  での説明が理解の助けになると思われる。

 4. 主体的身体

 しかし人間の場合,個別的主体性ばかりが意識され,集団的主体性は忘れられることが多い。これを木村は人間特殊的と表現する。それは,人間的自己の最大の特徴である「わたし」はいつも「他ならぬこのわたし」である意識のことである。これを支えているのが,「歴史」である。通常思い浮かべる世界の歴史などよりも個人が持つ記憶といった程度の意味の歴史を指す。先ほど出てきた,これまでの記憶・経験・個人的好み・習慣などの,他人と絶対に共有不可能な感覚の歴史と言い換えることもできる。そのような歴史は,一回性(人生を繰り返すことはできない),唯一性(自分は宇宙にただ一人しかいない),交換不可能性(自分を他人と取り替えることはできない)といった人間的自己意識の特徴を一番根底で裏付ける証拠となっている。これは紛れもない事実でありつつも,人類はまた生物一般と共有する二つの主体性の重ね合わせであるという事態を埋没させる原因となっていることに,木村は警鐘を鳴らす。この,「意識・脳相関」という心身を対立させる二元論を克服するために,我々の身体そのものに備わっている「相即的主体性」を強調する

   私たちの「からだ」そのものが,物質的・機械的な物体としての身体と,私たちが環境とのあいだで営む相即

   的・適応的な行動の境界として,私たちの「こころ」なのです。(p.50)

 

 そしてこの考え方を「主体的身体」と呼ぶ。ここで出現した「こころ」とは,従来の身体が持つ内面的機能としての心ではなく,「境界を生きる主体のあり方そのもの」の言い換えである。「境界を生きる主体」とは「相即」のことに他ならない。身体そのものに備わっている間主観性のことである。「からだ」と「こころ」--機構と機能として分けて考えられてきた二つのものは,同じ「コト」としてここでは捉え直されており,それこそが,ヴァイツゼカーの生命論を援用して人間学的な視点を精神医学に持ち込もうとした木村の論点である。

《​第二部  人間的医学における生と死》について

   1. アクチュアリティとリアリティ

 第二部の始めでは,医学を成立させてきた目的意識・価値意識を木村は強調する。近代以降の自然科学は客観的であることを至上命題とし,できるだけ主観性すなわち何が善く何が悪いといった人間の価値・倫理意識を排除する努力をしてきたが,医療・医学はそもそもの始まりからそのような態度とは相容れ得ない。それは,生きようとする意志,より良い人生を生きたいという欲望,できるだけ苦しみや死を回避したい/そのように願う他人を助けたいといった目的・価値意識が確実に医学には存在しているからである。そこには,生-死の対立が存在する。死は,身体医学では肉体的死を意味し,精神医学では社会的な死やからだは生きていても苦しみに満ちた実質的な死を意味する。生と死の概念を無視した医学はあり得ない。生について,ヴァイツゼカーはこう述べている。

 

    『生命そのものは決して死なない。死ぬのは個々の生き物だけである。』(ゲシュタルトクライス,木村敏訳p.3)

 

 彼の指す「生命そのもの」とは何か。これを説明するために木村が提唱するのが「アクチュアリティ」「リアリティ」の区別である。生命がこの星に誕生してから,無数の個体が生まれては死んでいった。数々の種も,出現しては消えていった。生物の進化はそのような不連続によってできている。しかし,視点を歴史的・通時的次元から空間的・共時的次元に移してみると,あらゆる生物は「生きている」。「生きている」ということは,単なる抽象的な普遍性ではなく個々の生き物が子孫へ渡していく「生命の基本的な現実」のことである。それを「アクチュアリティ」と呼ぶ。それに対する「リアリティ」(実在)は,先ほどの不連続性を帯びた個々の生き物=個体のことである。そうなると,「生きていること」=「生命そのもの」とみなす「アクチュアリティ」は不連続性の埒外にあり「非・不連続性」を持つ,と言える。(ここで「不連続性」の否定として「連続性」ではなく「非・不連続性」というような表現をしているのは,そこには連続する実在は何も存在しないからである。)それをヴァイツゼカーは「生命そのものは死なない」と表現した。つまり,個々の実在よりも一段階高い次元にあるのが「生きている」という「アクチュアリティ」なのである。

 個々の実在が持つ不連続性(ある個体が生まれては死ぬ)を,通時的な意味で「死」と呼ぶなら,同じ不連続として共時的な意味では「他」と捉えることもできる。自分ではないあらゆる生命の他者が,ここには含まれる。この視点からは,ある意味「死」と「他」は等価である。仏教でいえば,共時的視点の不連続である他者に通時的不連続の自己の死を重ね合わせたのが輪廻の思想だ,と読み解くこともできる。英語のActualityとRealityは両者とも日本語では「現実」と訳される単語だが,Actualityはより「現在」「目下」という意味合いが強い。現在進行中の行為,今といったニュアンスが含まれる。共時的=時間の流れを無視した,一定の(今の)時間軸で見たときの生命の「生きている」様子を,「アクチュアリティ」と呼んでいるわけだ。

アクチュアリティは,認識論的対象化を超越する。なので地球上のどこかに「生きていること」が個体や種と同じように存在しているのではない。何か実在としてこれを捉えようとすると,アニミズムや神秘主義となる。西田幾多郎の研究者でもある木村は,西田のいう「行為的直観」を通してこのようなアクチュアリティを体感・感知(対象として認識するのではない)することができるという。行為的直観あるいは身体感覚ということもできるこの体感が理性的認識よりも確実にアクチュアリティを捉えられるのは,それが「生そのもの」に直結しているからである。この最も原始的な例として,アメーバが環境と接触しその原形質を移動させる=環境との接触面で有益な物質を摂取し有害な物質を回避する行動に見ることができる。高等生物も,このような感覚器官・身体が「生きる」という目的に方向づけられて行動をとっている事実を否定することはできない。

 2. 相即の場所

 「相即」こそが「主体」であるという考え方は,主体の自己同一性を実体ではなく差異に基づける。では,この差異,相即が維持されるのはどこなのか。第一部の3. でも論じられたように,単に感覚器官ではない。それは物理空間に還元して説明されうる「どこか」にはない。その例として木村は音楽における「シ」の音を例に説明する。西洋音楽では,シの音は音階の調性を決めるドの音を導くという意味で導音と名付けられている。半音上のドに流れ込み安定しようとする強い傾向を持っている。シとドの音の相即はどこで起こっているのか?すなわち,接触面はどこにあるのか?シは,鳴り始めた瞬間から既に明確なドへの動きを持って鳴り続ける。シ自体の中に「ドに向かう」という関係,「ドとの差異」を内在化しているということができる。ということは,シからドへの移行をこの二つの境界と呼ぶとすると,シはそれ自体で境界になっている,つまりそれ自体が相即なのである。

 これと全く同様に,あらゆる生き物は外的・内的環境と接触することで差異を内在化し,生命を保っている。

    生きものの存在の意味は,生き続けること,生命を保つこと以外にはあり得ません。この意味が実現

    されるということと,生き物が生きているということは同じ一つのことなのです。 (p.68)

 オートポイエーシスの概念においても,生命現象は閉鎖系であるという結論が導かれた時の受け入れにくさは,その前提である「生きているということは自らを絶えず環境との境界として生み出し続けること」を念頭におけば,「閉鎖」-「解放」を対立する概念として考えることの妥当性を疑うことで乗り越えることができる。境界には内部・外部の対立がないのと同様に閉鎖・解放の対立もない。絶えず自身を環境との境界として生成し続けることがオートポイエーシスだということができる。また,ライプニッツの「モナド(精神世界における原子)は窓を持たない」という命題も,一見意味不明だが,モナドそれ自体が窓である=境界そのものであるという解釈によって一応成立させることができる。

 3. 死の人称的差異

 死ぬのは個体である。ある個体が死んだ時,それをどう捉えることができるのか?これは,一人称,二人称,三人称のどの立場から見るかでそれぞれ全く別の現実として起こる。

 一人称的死とは,自分が死ぬことである。この死は,事実的に不可逆であるだけでなく,認識的にも一方通行である。本人が,自分の死をリアリティとして対象的に認識することはできない。これに対して,三人称の死とは自分と何の関わりも持たない者の死である。この時,自己にとってその死は客観的なリアリティとして経験される。そして特徴的なのは二人称的死である。二人称とは本来,対象を示す「あなた」のことだが,木村は人称の三段階を視点の変化に当てはめるために独自の使い方をしている。ここでいう二人称とは「われわれ」つまり厳密には一人称複数のことである。自己に近しい者の死。医療のケースを考えてみれば,家族等の人間はもちろん主治医や看護師まで含めて個人的私的な関係を持った全ての人が,ある患者が亡くなった時には「二人称の死」を経験する。この時,その死は三人称の時とは対比的に純粋にアクチュアルな出来事として体験される。このようなアクチュアルな死は,完全に生の側に属するとも死の側に属するとも言えない両義的な性格を帯びる。アクチュアリティは境界であるということから,「現在・今この瞬間」という時間が,一本の直線的に流れる時間軸のどこかの点なのではなく,過去と未来の間で境界そのものとして働いており,過去的であり同時に未来的である,という事態と同様である。他の種類のどんな境界や差異も,純粋なアクチュアリティそのものとしてしかあり得ない。空間的・時間的な境界(敷居,門,窓,日付の変わり目など)が宗教的・魔術的な性格を帯びる理由が想像に難くない所以である。死のアクチュアリティに話を戻すと,このように死ぬ個体だけでなくそれが境界を作っていた「相手」すなわち集団のメンバーなども必然的に変化を被り,自分自身の死をも身体的に体感・経験することになる。その状態を,木村は「死の連帯性」と表現する。

 4. 生と死のアクチュアリティ

 「生命そのもの」というアクチュアリティは,個別的有限の生命体から見ればある意味で死のアクチュアリティと等価である。全ての実在の生き物がそこから生まれ,そこに向かって死んでいく。

              生と死の差異が,見方によっては「生それ自身」としても「死それ自身」としても姿を現すのは,けっして

              不思議なことではありません。(p.89)

 

 この生と死の境界である「何ものか」は,相即であり,純粋なアクチュアリティであり,生の視点から見れば生そのものであり,死の視点から見れば死そのものであると言い換えることもできる。木村は最後に,自身が実践・研究する精神医学に,このような相即を認識すること--患者の生と死を自身のアクチュアリティとして生きることや,医師と患者の境界そのものを患者として扱うこと--を人間学的医学とし,彼が目指す医学の姿を掲げている。

考察と展望

 何度か読み直してまとめてみても,正直なところ,木村博士の論と,それが基づくヴァイツゼカーや西田幾多郎の論を完全に理解はできていない。それは間違いなく,彼らの主張していること--生と死の相即の実際--とは,脳みそによる論理関係の整理ではなく,実際の体感,木村の引用するところの行為的直観,身体的体感を必要としているからだ。ただ,今まで「生命とはなんだろうか」という純粋な問いの答えを求めるために開いてきた幾らかのDNAやゲノムに関する(還元論的とまでは言わないが)自然科学寄りの本に比べ,木村博士はより人文科学,哲学からも影響を受けた展開を見せているので,個人的には非常に良い経験になった。結論と言うべきかはわからないが,最後に提示された「生と死のアクチュアリティは同一である」という命題は,今後生命に関する考えを知っていく上で常に頭に留めておくに値するものだった。

 木村博士の論ずる生命観に通ずるような作品を作っているアーティストを探せたらと思ったが,今のところ自分では見つけられていない。

 医学部生に「医学は生得的に客観性と相容れない」ということの如何を聞いてみたところ,これは確かに中心的性質として多くの医学者の間で認識されているとのことだった。また,輪廻転生を実在の不連続性が共通している「他者」と「死」を重ね合わせたものとして解釈すると,いう考え方については,司馬さんから納得できるという感想が出た。今後の生命観の醸造に,東大の金子邦彦博士やサンタフェ研究所のカウフマン博士がそれぞれ論じているカオス理論が推奨された。大著に挑む前に,小説的なエッセイも含まれているという金子博士の『カオスの紡ぐ夢の中で』を読了したが,非常に面白かった。カオスが消えたらこの世界はどうなるのか?というSFだ。金子博士はこの書でサンタフェ研究所のことを皮肉っていたが,カウフマンも読んでみたいと思う。

奥村研太郎​

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