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東京藝術大学 出張講義

2021年12月1日  教育  

 

東京藝術大学の『音楽アウトリーチII』という講座で,AMSSメンバーが活動紹介と音楽研究に関するレクチャーを行いました。このような貴重な機会を作っていただいた佐野先生,ありがとうございました!

​  講義を担当したメンバーによるレポート

"​芸術が科学に歩み寄る
きっかけを作りたい"

東京藝術大学の『音楽アウトリーチII』(担当:佐野靖教授)という講座で,AMSSの活動紹介と音楽研究の現状・展望に関する講義をさせていただいた。

「音楽アウトリーチ」とは,アーティストたちがふだん生の音楽に触れる機会の少ない学校や地域などに出向き,コンサートやワークショップなどを構想・展開する活動である。実演者とコーディネーター,あるいは実践現場との双方向のコミュニケーションによって,様々な内容の取り組みが構想・展開される。『音楽アウトリーチII』という講座は,講義や活動を通して音楽によるアウトリーチ活動の内容を充実させるために必要な資質・能力を身につけることを目指すものである。

さて,その「必要な資質・能力」とは具体的にいかなるものなのか。自分なりの結論を先に述べておくと,「分からない」である。もしそれが最初から簡単に分かってしまうようなものなら,おそらく『音楽アウトリーチII』は必要ない。分からないから,その答えを求めて,たくさんの音楽学生がこの講座を履修するのだと思う。とすれば,「必要な資質・能力を身につける」以前に,そもそも「必要な資質・能力とは何たるかを発見する」ことが彼らの目下の目的になるだろう。

その目的を達成するためには,「音楽」という枠をいったん飛び出て,「音楽」を相対化して捉えることが必要である。すでに音楽にどっぷり浸かっている音楽学生にとって,音楽が人間を感動させることが当たり前すぎるがゆえ,逆にその感動の仕組みを理解することは難しい。このような状態では,リーチアウトした人々を音楽で感動させるのに必要な資質・能力を見出すことなど不可能である。「ふだん生の音楽に触れる機会の少ない」人々にリーチアウトする場合には,尚更そうだろう。そこで,自分が慣れ親しんだ音楽という海から一旦這い上がり,音楽の景色を俯瞰的に眺める視点を手に入れる必要がある。一度その視点を手に入れた者は,「音楽は楽しめて当然だ」とは口が裂けても言えなくなるだろう。

それは,言語教育と非常に似ている。自分は東大在学中の6年間,ある学習塾で高校生に英語を指導してきた。一般には,講師の英語力が高ければ高いほど指導も上手だと思われている。講師側のなかにもそのような信念を持って教壇に立っている人は多いだろう。いつかカフェでふと耳にした,「そんなに英語が得意な先生に習ってるんだったら,きっとお子さんの英語力もうなぎ上りねえ」という教育ママの発話を思い出す。この言葉の背後にも,「英語力」があればそれに見合った「指導力」が伴うはずだという信念が見て取れる。しかし,ことはそう簡単ではない。講師自身にどんなに英語力があったところで,その指導がすなおに生徒の英語力向上に直結することは極まれだ。「英語力」がネイティブレベルだからといって「指導力」が高いなどという保証はない。「英語力」は「指導力」の必要条件でこそあれ,十分条件ではないのである。

結局,ここでも先ほどの音楽の話と同じ構図が浮かび上がってくる。すなわち,言語に既に慣れ親しんでいる人間がその言語の仕組みを理解しているとは限らない,ということだ。ネイティブ・スピーカーは無意識のうちに母語を完璧に操ることができてしまうが,その無意識の内実は,彼ら自身には分からない。たとえば我々日本人が「"雨に降られる"と言えるのに"財布に落ちられる"とは言えないのはなぜですか?」と尋ねられても,ただフリーズしてしまうだろう。"財布に落ちられる"がおかしいのは即座にわかる,しかし,そのおかしさの仕組みを説明することはできないのである。こういう質問には,外国人の日本語学習者や外国語として日本語を研究している人のほうが答えられることが多い。外から言語を眺めてはじめて,見えてくるものがあるのだ。ここにこそ,日本人が外国語として英語を研究する意味があるし,英語講師たるものはその研究の成果を授業に還元しなければならない。英語教育に「英語学」を導入しなければならない。さもなくば,生徒がつまずく理由がわからず,講師・生徒ともに頭を抱えることになる。こんなに頑張っているはずなのに,なぜ英語の成績が伸びてこないのか,と。

音楽のアウトリーチとは,いわば「音楽教育」である。ふだん英語に慣れ親しんでいない人に英語を身につけさせるのが「英語教育」なら,ふだん音楽に慣れ親しんでいない人に音楽を身につけさせるのは「音楽教育」と言って差し支えないだろう。自分が今回の出張講義で達成したかったことは,音楽アウトリーチに「音楽学」を導入するメリットを提示することだった。それは,英語教育に「英語学」を導入するメリットがあるのと同じことである。そんな安直に音楽と言語を結びつけて語っていいのかという批判もあるかもしれないが,音楽と言語が共通にもつ「統計的学習」という側面が,両者のアナロジーを支えていると自分は思う。音楽と言語が「慣れ親しむほど理解から遠ざかる」性質を共有するのは,両者がインプットの統計的頻度分布を脳内にストックしつつ学習されるものだからだ。(音楽・言語の統計的学習について詳しく知りたければ,大黒達也先生が2018年に発表した Neurophysiological Markers of Statistical Learning in Music and Language: Hierarchy, Entropy and Uncertainty というレビュー論文を参照すると良い。) 

「音楽学」も「英語学」も,紛れもない「科学」である。音楽という枠から飛び出す勇気を得るために,「科学」は強力な武器となるだろう。科学が要求するロジカルな思考回路にのっかると,物事を相対化して客観的に眺められるようになる。たとえば,音楽が感情を惹起する仕組みをロジカルに分析したいと思ったならば,音楽が感情を惹起しないケースに目を向けざるをえなくなる。これが,「音楽を楽しんでいる自分」を相対的に捉えられるようになる時点である。

 

今回の講義では,音楽を相対化するための種をたくさん撒いておいた。そこから受講生が自由に根っこを伸ばしていってくれたら本望であるが,今回は時間の制約上,根っこの生やし方まで踏み込んで説明することができなかった。つまり,点と点をいかに(科学的妥当性をもった)論理で繋いでいくかというところまではお見せできなかった。もしそこまで厳密に考えたいという受講生がいらっしゃったら,その方はこれから日常的に科学的なマインドをもって音楽に触れる必要が出てくると思う。その方法はいくらでもある。音楽研究はここ10年で指数関数的に増えていて,手軽に論文を入手できるようになっているし,音楽医科学を実際に音楽家に適用する画期的な試みも既に日本で始まっている(その例として,講義ではミュージック・エクセレンス・プロジェクトを紹介した)。科学が芸術教育の現場に浸透するのはまだまだ先になるだろうが,その流れを東京藝術大学に作っていくうえで今回の講義は「大事な一歩」になるだろう--そう佐野教授はおっしゃった。おそらく「最初の一歩」を作るのにAMSSのような学生団体が果たす役割は大きいだろうし,音楽と科学を行ったり来たりする柔軟な思考を有する学生という立ち位置だからこそ「音楽から科学への架け橋」になれるのだとも思う(いざ研究者となってしまえば音楽活動も音楽研究も並行してこなす余裕はとてもあるまい)。「最初の一歩」をサポートしようとしている人たちは皆,こう思っているはずである。「たくさんの科学者が芸術に歩み寄ろうとしているなか,芸術家はどれくらい科学に歩み寄れるのか?」

この両輪を回すことなしに,音楽の俯瞰図は完成しえないと思うのである。これからのAMSSは,前者のみならず後者の輪にも手を伸ばすことになりそうだ。(前者の輪に関しては,医学教育にアートを取り入れる流れがあるように,徐々に回り出しているような気がする。前者の輪を回すための海外の試みを,最後に一つ紹介しよう。https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-med-schools-requiring-art-classes

 

東京大学医学部6年 司馬 康

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(​講義スライドより抜粋)

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(​講義スライドより抜粋)

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