AMSS Memoirs
2020. 8. 14
音楽の情動を考える (2)
情動の構成要素としての〈信念〉を,音楽哲学・神経科学を含めた広い視野から考察する。
1. 〈信念〉に基づいた情動
音楽哲学者 Kivyは,わたしたちが〈情動〉を経験するとき,そこには,その情動に関する〈対象〉(object),その情動を生じさせる〈信念〉(belief),そしてその情動から惹き起こされる〈感じ〉(feeling) が存在している,と主張しました (1) 。例えば,ポーカーをしているときに友人のイカサマに気づき,怒ったとします。このとき,怒りという情動の〈対象〉は「友人」であり,〈信念〉は「友人がイカサマをした」ということであり,そして〈感じ〉は「怒り」です。さて,この3つの観点を音楽に適用するとどうなるでしょうか。わたしたちが〈音楽的情動〉を感じる際に〈対象〉としているのは,もちろん「音楽(の特徴量)」です。次に〈信念〉とは,聴者が,音楽にどのような美的な要素があるかについて抱いている信念そのものです。最後に,わたしたちが感じる〈感じ〉というのは,何かしら高揚した(high)ものです。その高揚した感じにも多様な感じ方があり,それらを何とか区別して言語化したいと思うと,「悲しい」「嬉しい」といった日常的な感情を表現する言葉が出てくることになるのでしょう(こちらで詳述)。
今回注目したいのは,〈信念〉です。〈信念〉が〈情動〉の一つの構成要素である以上,この信念が変わることで,同一の音楽に対しても感じる〈情動〉が変化してしまうということは十分ありえます。音楽に対する感動の種類が時によって変わってしまったり,ひどい場合には,以前は感動していたはずの音楽に対して,楽器構成や和声理論などの仕組みを知ったことをきっかけに全く感動しなくなってしまうということすらあります。感動のカラクリを知りたい,でもそれを知ってしまった以上,もう同じようには感動できない--このジレンマはクラシック音楽の演奏家なら経験済みの人も多いでしょう。逆のケース,すなわち〈信念〉を変えることでそれまで馴染みのなかった音楽に感動できようになるというケースもあります。これに関しては,自分が初めてロック音楽を聴くようになった頃のことを思い出します。元々自分はクラシック畑の人間だったので,兄が家のCDプレイヤーでよく流していたロックを微塵も理解できず,なんなら音量の大きさにうんざりしていたほどです。ところが,中学時代の同級生Sとの出会いが転機になりました。Sは大のロック好きで,文化祭の時など,教室に特別に設置されたスピーカーを独占して自分の好きなロック音楽を流し顰蹙を買うという変な奴だったのですが,これほど音楽に愛を持っている人間が身近にいるということが自分には嬉しい驚きでした。それで,こんなに音楽好きな人が聴くぐらいだからロック音楽にもそれなりの魅力があるに違いないと思って,ついに自分も聴き始めたのです。Sに勧められた曲はなんだって聴きました。いまだに衝撃を忘れないのは,ポストパンク・バンド Gang of Fourとの出会いです。
この曲を通して,こんなシンプルなリズム・旋律・サウンドでも人間は十分興奮できるということを初めて知りました。が,これほど大きな音楽の嗜好の変化を,リズム・旋律・サウンドといった純粋に音楽側の〈対象〉だけに基づいて説明することは不可能なのではないかと思っています。結局こうやって自分がロックを聴くようになった背景は,「あのSが言うくらいだから一聴の価値はあるだろう」という〈信念〉抜きにして語れないのではないか。〈信念〉がなければ,どんなロック音楽を聴こうとも依然騒音にしか響かなかったはずなのです。
Kivyが言うところの〈信念〉とは違いますが,音楽聴取時の聴者の〈状態〉も,その音楽から受ける〈情動〉を左右する重要な因子となります。(実際のところ〈信念〉は聴者の〈状態〉と不可分の関係にあると思います。たとえば,緊急で片付けないといけないタスクがあり切羽詰まっている〈状態〉の人間は,悠長に音楽など聴いている場合ではないですから,彼の〈信念〉はいかなる音楽要素にも美を見出せないことになります。このように〈信念〉は〈状態〉と表裏一体です。)これまでの研究で,強いネガティブ感情は安静時に生理覚醒していると生じやすいこと (2,3) ,弱いネガティブ感情と安静時生理覚醒は関連しないこと (4,5) が示されており,この2つを合わせて考えれば「経験される感情強度は安静時覚醒と関連する」ということが言えそうです。それを音楽の鳥肌感,すなわち強いポジティブ感情においても示した論文が2014年に出ました (6)。この研究は,安静時に生理覚醒するほど鳥肌感が頻繁に生起することを示しました。図 1, 図 2 は,縦軸を「鳥肌感の生起頻度」にとり,横軸にそれぞれ「皮膚電動水準」と「心拍変動」をとったもので,交感神経や副交感神経が支配する生理的状態が鳥肌感の生起と相関していることを示しています。
前頭皮質内側部の働きが弱まると扁桃体が脱抑制・活性化し,それにより脳幹を介して生理覚醒が起こると,強いネガティブ感情を経験しやすくなるというモデル(神経内臓統合モデル;neurovisceral integration model)が従来の研究で提唱されていましたが (7) ,本研究は強いポジティブ感情もこのモデルに当てはまることを示唆しています。このように〈信念〉は内臓(脳)の生理状態とも密接に関わります。やはり音楽の〈情動〉は身体との関わりを抜きにしては語れません。
感情が強まりやすいモードが脳にあるというのは個人的な経験としても確かめられます。たとえばホールでコンサートを聴くときには,CDでは体験できない独特の高揚感があります。ホールで座ってじっと演奏に耳を傾けている時には,脳が特別なモードに入っているのかもしれません。脳機能イメージング等を用いた今後の脳科学研究が待たれます。
図 1 図 2
図 3 神経内臓統合モデルに参与する脳部位と相互作用
(Nikolin et al. 2017より一部改変)
2. 認知的侵入
ひとたび〈信念〉に基づいた〈情動〉が走り出すと,それが今度は〈信念〉に影響するかもしれない,ということを近年の研究は示唆しています。
まず,情動は我々の知覚を変化させます。これは心の哲学や認知科学において認知的侵入可能性(cognitive penetrability)と呼ばれている現象の一つで,文学作品でよく見かける「絶望でいつもの景色が灰色に見えた」のような描写が実際に我々の身に起こっていることが分かっています。たとえば,恐怖は距離の知覚に影響するとされています (8) 。被験者の前に生きたタランチュラを置き,被験者が恐怖を感じると,タランチュラまでの距離が実際よりも近く見えるといいます。このような現象は生存に関係しているのでしょう。恐怖を与える対象からはできるだけ早く離れた方がよく,離れるという行為が早く生じるにはタランチュラまでの距離が実際より短く見えた方がよいのです。今のは視覚の例ですが,聴覚でも同様の現象が報告されています。恐怖などのネガティブな感情を抱いていると,音が出ている場所が実際よりも近くにあるように聴こえるということが分かっています (9) 。ネガティブな情動が音の大きさの知覚に影響するという報告もあります (10,11) 。
ただし,これらの実験では知覚が認知的侵入可能な状態であることを証明できていないという見方もあります。認知的侵入可能性は〈知覚以外の認知状態の影響で知覚が変化しうる〉と言っているわけですが,そうした知覚以外の認知状態は,知覚そのものではなく,知覚から判断に至る過程に介入しているのではないか,という疑いがあるのです。先ほどの視覚の研究の例でいえば,タランチュラを見たときの恐怖は,タランチュラまでの距離の見え方そのものは変化させていないが,その見え方に基づいて判断を下す過程を変化させ,その結果,距離の判断を変化させているのかもしれません。これを踏まえても認知的侵入可能性が本当に存在するかどうか,は未だに議論が分かれているところです。
しかし,この問題を脇に置くにしても,次の重要な論点を指摘できます。すなわち,(変化しているのが知覚そのものであれ知覚と判断のあいだの過程であれ)知覚以外の心的状態に影響されて最終的な判断が変化する,ということです。ここで,「知覚以外の心的状態」=〈情動〉,「最終的な判断」=〈信念〉と考えれば,〈情動〉が〈信念〉を変化させる という図式が導かれます。この図式が大きく関わってくるのは,クラシック音楽のような再現性の強い音楽です。困ったことに,自分が好きな指揮者率いるオケや好きなピアニストの演奏は,何を聴いても"イイ感じ"に聴こえてしまうものです。その意味で言うと,個人的な経験として「音色」の束縛は特に大きいと感じています。自分の好みの演奏家が作る好みの「音色」が耳に入ってくると,そこから惹起される〈情動〉があまりに強いために,「音色」に限らずその人の演奏の特徴量すべてが美しく響いてしまう,そしてそのような弾き方が最も優れたものだという〈信念〉が形成されてしまうことがあります。歌に置き換えて言えば「声色」です。人間誰しも"推しの声"というものがあり,"推しの声"の持ち主の歌なら何でも良い曲に聴こえてしまうという事例が(友人たちの話を聴く限り)やはり結構あるようなのです。特徴的な音色[声色] はそれぞれの演奏家 [歌手] とほぼ一対一に対応するため,繰り返される聴取経験の中で〈情動〉-〈信念〉の結びつきが強まれば強まるほど「弾いている[歌っている]人を基準に 何をもって美しいとするかという〈信念〉が決まる」という状況に陥りかねません。「この人が何をするか」ではなく「この人が誰であるか」という評価基準が優先されてしまうこのような音楽鑑賞は,音楽の価値を歪曲する危険性を孕んでいます(こちらの記事でも同趣旨のことが指摘されています)。さらに困ったことに,いったん強い〈情動〉により形成されてしまった〈信念〉は,(おそらく長期記憶に保存されることで)再び同じ曲を聴く時点まで引きずられてしまうこともあります。もしこの2度目の聴取経験が違う演奏家によるものだった場合,その評価は,1度目の聴取時に形成された〈信念〉に影響されたものにならざるを得ないでしょう。
いま述べたことは,まだ神経科学のレベルではほとんど裏付けられていません。今後,こうした実際の聴取経験に密接に関わる科学研究が増えていくと面白いと思います。
3.〈信念〉と〈感じ〉は区別できるか
ここまで〈信念〉という言葉を「音楽にどのような美的な要素があるかについての聴者の信念」という定義で使ってきました。その中には,一見〈感じ〉との区別が曖昧になっている〈信念〉もあったと思います。たとえば,あるピアニストの「音色」が美しいと思う〈信念〉というのは,結局その音色に対して聴者の心は動いているわけだから〈感じ〉そのものなのではないか,と思われるかもしれません。しかし〈信念〉が音楽そのものに対する捉え方を内在的に含んでいるのに対し,〈感じ〉は音楽それ自体とは切り離すことができる脳の働きです。たとえば,音楽を聴き終わった後に,余韻として何かの気分を感じるということがありますが,これはまさに,音楽それ自体を認知していなくても何かしらの〈感じ〉を経験できるということの証左です。確かに両者の境界線は私たち健常者からすると直感的に理解するのが難しいかもしれませんが,脳の損傷研究(脳に異常を抱えている人の研究)を見ると区別可能であることが明らかになります。
これまでの研究で分かっているのは,旋律などの音楽の特徴量を認識する「音楽情報処理経路」と,音楽聴取によって情動が生じる「音楽情動処理経路」が独立に存在しているということです。扁桃体にダメージを負った患者が,不協和音を用いて恐怖を表現した音楽と,短調で悲しみを表現した音楽の認識ができなくなった事例が報告されています (12) が,この患者ではメロディを識別する能力は健在であったため,「音楽情動処理」の経路のみが破壊されたと考えられます。一方,脳の両側の聴覚野にダメージを負った患者のケースでは,聴取したメロディーを同定できず曲名も答えられなかったのに対し,そのメロディーが表している情動(こちらでの分類で言えば 音楽によって表現されている情動)を答えることは可能でした (13) 。この患者らは「音楽情報処理」の経路のみが破壊されたと考えられます。
4.〈信念〉と神経科学
音楽哲学で提唱された〈信念〉という概念は,神経科学で提唱されている「注意」(attention)という概念と親和性が高いと思います。神経科学の知見を借りれば,「何の音楽要素をもって美しいとみなすか」という〈信念〉は,特定の音楽要素に注意を向けるプロセスと言い換えることが可能かもしれません。これを認めるならば,〈信念〉(≒注意)と〈情動〉がどのように関わるかという問題を神経科学が研究する用意も整いつつあると感じます。本節では,神経科学が注意という働きをどのように説明しているのかを,音楽の文脈と絡めながら概説していきます。
脳波研究で頻繁に測定されるものに ミスマッチ陰性成分(mismatch negativity;MMN)があります。MMNは聴覚性感覚記憶の機能と対応していると考えられており,聴者が予測できない音(deviant;以下devと略記)に遭遇してから100-200msで発生します(図 4)。たとえば,「ドドドドドドレドドドドレドドドド」という音列を聴くと「レ」で MMN が反応します。MMN はある意味脳が "驚いている" ことを示していると言えます。興味深いことに,いくつかの研究が示すところによれば,聴者が「devが来そうだ」と予め分かっている箇所でもMMNは変わらず発生するといいます。たとえば,音の長さや音程に関してdevが来ることを知らせる視覚刺激をつけても,MMNの振幅や潜時は変わりませんでした (14,15) 。被験者が自らボタンを押してdevを生成した場合ですら,MMNの振幅と潜時が変化しなかったという報告もあります (16) 。一方MMNに続いて起こるP3a(250–300 ms で発生)とP3b(300ms以降で発生)は,MMNより潜時が長い分,より高次のモジュールでの処理を反映している脳電位です。MMNとは違って,P3aとP3b は dev が来ることを事前に知っているかどうかに影響されます (17,18) 。一体ここで脳はどのような処理を行っているのでしょうか。
この疑問に答える前に,近年注目されている理論仮説である 予測符号化(predictive coding;PC)をまず説明します(図 5)。予測符号化仮説を音の大きさを推論する場合に当てはめて考えてみると,次のようになります。まず上位の階層のニューロンRが下位の階層に向けて「大きさ= Φ ではないか」という予測信号(Predictions)を送ります。次に下位ニューロンEで実際の入力(Sensory input)とその予測信号との誤差を計算し上位ニューロンに送り返します。この誤差を予測誤差(Prediction errors)と呼びます。予測誤差がトップダウンの予測信号で完全に抑制できていれば正しい推定ができていると言え,これを 予測誤差の抑制 と呼びます。予測符号化仮説は脳が予測誤差を最小化することによって外界の状態を推定していると考えるわけです。予測誤差の抑制は脳内の至るところで見られ,そのうち脳波成分として知られているのが先述のMMNになります。
ここで,Fristonが提唱する「自由エネルギー原理」に登場する 精度(precision)という概念が重要になってきます。上記の例で引き続き考えてみましょう。実際の入力信号を μ(μ 0 , μ 1 , ...)とすると,信号にはゆらぎ(分散)があるので μ はノイズを伴うことになります。そして,ゆらぎ(分散)の逆数を「精度」と呼びます。するとニューロンにより計算された予測誤差には常に「精度」という係数がくっついて来ることになります。これを「精度の重みづけ」と言い,図 5 では Eについている小さなループが精度の重みづけ処理を行っています。信号 μ のゆらぎが大きい,すなわち,ノイズが大きい場合には,ノイズに反比例して精度が小さくなるため,精度によって重みづけられた予測誤差も小さくなります。つまりノイズが大きい場合は誤差がないとみなされることもあるということです(図 6)。すると,予測信号を書き換える必要はないと判断し,脳はこれ以上入力信号に注意を向けなくなってしまいます。
「精度」をたとえば音楽のリズムに当てはめて考えてみましょう。リズムの入力信号 μ のゆらぎが大きい状態とは 不確実性(uncertainty)が大きい状態であり,たとえばシンコペーションが多い状態などを思い浮かべていただければ結構です。シンコペーションが多ければ多いほど「精度」は小さくなっていくことになります(図 7)。
ここで重要なのは,こちらでも説明したように,私たちの聴取経験は「devによるズレ」(surprise)と「不確実性」(uncertainty)の両方に影響を受けるということです。私たちは両者のそれぞれに対して何らかの予測を行っていると考えられます。「devによるズレ(surprise)」に対する予測とは,「次にどういう音が来るか」という予測のことなので,これは「音スロット(content)についての予測」という風に言うことができます。一方で「不確実性(uncertainty)」に対する予測とは,「精度」に対する予測ないし「入力信号のゆらぎ」に対する予測のことなので,これは「contentの予測にどれくらい自信を持てるかの予測」すなわち「音の文脈(context)についての予測」という風に言うことができます。このように音楽では「予測(の精度)に対して予測をする」という予測の二重性があり,予測信号を出すトップダウンの脳回路も,前者に対応する first-order predictions回路 と後者に対応する second-order predictions回路 の2種類から成ると考えられています。それぞれ図示したのが 図 8 です。(second-order predictions回路は,究極的には注意による入力信号の選択を行っているので,modulatory connections とも呼ばれます。)
Koelschらは,先述のMMN等の挙動も以上のモデルから説明できると考えました (19) 。予測可能な規則的音列pが入力されている状態では,入力信号の予測誤差は直ちに抑制される(外界を正しく推定できる)ようになっています。「first-order predictions 回路の活性化によりcontentの正確な予測ができる」と同時に「予測誤差の精度が大きくなっている」状態です。より簡単には,トップダウンからの命令により,ボトムアップに送られる予測誤差がpを表象することに特化している状態と言えるでしょう。ここでdevが入力されても,神経回路はdevに対応する表象を高い精度で(先述のように予測誤差の精度が大きい状態にあります)弱めてしまいます。これでは予測誤差はいつまで経っても抑制されず,誤差の分だけMMNが生じることになります。イメージとしては,外からよそ者がやってきてノックをしているが,主人が門を固く閉ざしているために,ノックが中の人には聞こえず無視されている,という感じです。ただし間違いなくノックの衝撃は生じているので,その分がMMNとして計測されることになるのです。以上を図解したのが,図8の「行き止まり」マークをつけた回路(最左・最右)です。よそ者の比喩をこの図に当てはめてみてください。
一方P3bは,より高次の脳処理であり潜時も長いため,contextレベルでの予測の方がメインとして関わってきます。すなわち,second-order predictions 回路が活性化することで,devが精度(不確実性)の予測を大きく変化させます。これからdevが入るということが分かっている場合には,これは精度が低くなる(不確実性が高くなる)ことと同値ですから,部外者の締め出しが緩和されてdevに対応する表象も姿を現すようになります。こうして部外者は晴れて建物への入場を許され,予測誤差は抑制されます。以上を図解したのが,図8の「行き止まり」マークがついていない回路(中央)です。そして,ちゃんと予測誤差が抑制されるようになったことを反映してP3bは抑制されます。これが先ほど述べた「MMNとは違ってP3bはdevが来ることを事前に知っているかどうかに影響を受ける」ことの仕組みです。
まとめましょう。first-order predictions回路とsecond-order predictions回路の二重支配を受けている脳は,devのような予測不可能な刺激に対し驚いているとも驚いていないとも言えます。content/contextの区別を踏まえると「予測不可能な刺激に対してcontentレベルでは驚くが contextレベルでは驚かない」ということです。
first-orderだけでは脳が頑として驚き続ける(それがMMNとして反映されます)ことを考えると,初期の感覚処理(例:潜時の短いMMN)には,注意(精度の予測)によるコントロールが及んでいないように思えるかもしれません。聴覚以外の感覚においては,実際にその推察を支持するような現象が既に報告されています。たとえば視覚領域では,目を動かす瞬間にぼやける映像が脳に入らないよう視覚が遮断されるsaccadic suppressionという現象が知られています。この saccadic suppression のおかげで,目が1秒間に5回という高スピードで小刻みに動く(saccadic現象と言う)にも関わらず脳は対象の輪郭をはっきりと捉えることができます。saccadic suppressionは視覚処理のすべてのプロセスの中でも初期の感覚処理の方に分類されるわけですが,これも人間が意識的にコントロールできるものではありません (20) 。
しかしその一方で,注意が初期の聴覚処理に関わっていることを示唆するエビデンスも存在するのです。それは和声的規則の逸脱を反映する ERAN(early right anterior negativity)という別の脳波成分の計測により分かってきました。図 4 のように,ERAN は MMN より潜時が長く,より高次の脳処理を反映したものですが,それでも初期の聴覚処理に属するとされている成分です。ここで重要になるのは,和声には規則(syntax)があり,私たちは今までの音楽経験からその規則を大量に頭の中にストックしているということです (21) 。西洋音楽でいえば「トニック」→「サブドミナント」→「ドミナント」→「トニック」といった和声進行が典型的です。ここからMMNとERANの決定的な違いが導かれます。すなわち,MMNはその時その時の聴取経験に基づいた脳処理を反映するのに対し,ERANは長期記憶に基づいた脳処理を反映するのです。ここでいよいよ「記憶」も含めて議論できるようになります(音楽の文脈において予測に関する議論をするときに「記憶」という論点は絶対に外せないでしょう)。
さて,先述のようにMMNは注意によって変化しにくいわけですが,ERANは,次にどんな音が来るか分かっていると,(振幅は変わりませんが)潜時が短くなります (22) 。すなわち,注意が,予測誤差に関する脳の反応が起こるまでの時間を短縮させます。ここで,脳が外界からの情報を集める時間は予測誤差の精度によって決まる (23) ということを合わせて考慮すれば,これは注意が感覚信号の精度を高めていることを意味します。(実は「注意を向けることは入力信号の精度を高めることと等価である」という仮説は自由エネルギー原理の想定の中で最も重要なものの一つであり,音楽処理においてはこの仮説が成立すると言われています (24) 。この仮説は音楽処理以外の文脈でもエビデンスが存在し,たとえばドーパミン投与により注意機能が高まった被験者が,瞬間提示された単語を報告する正答率と確信度が増加されることが報告されています (25) 。)そしてまた,注意がMMN・ERANに及ぼす影響の違いから浮かび上がるのは,長期記憶を利用するプロセスにおいて脳は能動的に音に注意を向けている という重要な事実です。長期記憶に頼って聴解するタイプの音楽要素(→ERANが反映)を相手にしている場合には,このあと規則から逸脱した音が来ると分かった時点で,不確実性を解消してくれるような音列に注意を向けることが可能となります。しかし長期記憶では予想がつかないタイプの音楽要素(→MMNが反映)を相手にしている場合には,このあと規則から逸脱した音が来ると分かったとしても,不確実性を解消する決まった構文は存在しない(規則の裏切り方には無限のパターンがある)ので,注意を向けようがありません。
一方で,同じ逸脱刺激を繰り返し与えるケースではERANが変化しないことが分かっています (22)。これは,繰り返される刺激により「なんとなくこれから逸脱音がきそうだ」ということは予測できても,具体的にどのような逸脱になるかは予測できないため,何回繰り返そうが脳の反応は変わらないからです。逆に,先述した音を予告されるケースであれば,不確実性を解消してくれそうな音だけに注意を向けることになるので,脳の反応も変化します。
また別の実験では,与えられた音列の中に和声の規則に合わない音があったかどうかを被験者が答える際に,その判断に自信がないとERANの振幅が大きくなるということも分かりました (26) 。この実験はcontentではなくcontextの予測を調べていることになるので,この結果から分かることはERAN(の振幅)がfirst-order predictionsではなくsecond-order predictionsにより左右されるということです。やはりERANは注意により影響を受けやすいようです。
日常生活で使う「注意」という言葉とは違って,ここまで述べたきた「注意」というのは,必ずしも意識を伴うわけではありません。それどころか,音楽を聴いている時の注意というのはたいてい無意識のものでしょう。それでも,ここまで見てきたように,音楽聴取における注意ないし精度の調整というのは極めて能動的なプロセスであり,もはや 心的な「運動」(mental action)と呼んでしまってよいものです (27,28) 。そして,自由エネルギー原理は,音楽の心的運動,目の運動,ふつうに体を動かす運動…… などを包括的に「運動」として記述できる(すべて同じ神経基盤を有しているとみなせる)と考えています。自由エネルギー原理が「脳の統一理論」として期待されている所以はここにあります。そうすると,音楽における注意と〈情動〉の関係を研究していく上で,他領域における運動と〈情動〉の関係がヒントになる可能性があります。なかでも視覚領域は特に研究が進んでいます。今のところ指摘されているのは,精度(不確実性)の細かな変動(entropic flux)が,音楽の美的経験に一役買っているのではないかということです (29) 。哲学者Nanayが言うところの「注意の分散」と芸術美の関係(こちらでも簡単に触れました)にも通じるところがあると感じますが,この精度ないし注意のふらつきが音楽の〈情動〉にどのような影響を及ぼすのか,とても興味を持っているところです。
図 4 音楽認知で想定されている諸段階(Koelsch & SIabel 2005 を翻訳・改変したもの)
図 5 予測符号化のモデル(吉田正俊先生が作成されたもの,こちらより引用)
図 6 分散(ノイズ)の大きさが異なる信号(乾 2018)
図 7 シンコペーションと精度(Vuust et al., 2018 より作成)
図 8 聴覚経路における予測符号化の階層処理
(Koelsch et al., 2018 を翻訳・改変したもの)
赤の下向き矢印の太さは,精度の予測に
基づいた入力信号の選択を反映している。
5. 何回聴いてもエモい曲 - 次稿への導入 -
人間は同じ音楽を反復して聴いていると飽きてきて,〈情動〉が薄まっていくように感じます。これは直感的には,聴けば聴くほど予測可能性がどんどん上がっていくからだと考えられます。しかし時々,何回聴いても飽きない曲に出会うことがあります。これはどう説明できるでしょうか。またダンスミュージックは同じ音列が何回も繰り返されるのが特徴です。それでも世界中の人々がダンスミュージックを飽きずに楽しんでいるのはなぜでしょうか。
この問題に答えるにあたって,まずは第4節で触れた予測の二重性がヒントになると思います。どんなに繰り返し聴いても人間の予測できる範囲には限界があって,単純に聴く回数に比例して「予測可能性が上がる」と言えるわけではないのかもしれません。先行研究では同一音楽の重複聴取(repetition)と MMN, ERAN の挙動がどのような関係として論じられているのか,気になるところです。
また,第2節では次のように述べました。
いったん強い〈情動〉により形成されてしまった〈信念〉は,(おそらく長期記憶に保存されることで)
再び同じ曲を聴く時点まで引きずられてしまうことがあります。
ここで「おそらく」と断りを入れてお茶を濁してしまった長期記憶という観点も,第4節で考察した注意と長期記憶の密接な関係を考えれば,議論の価値があるでしょう。同じ音楽を複数回聴く場合に,それぞれの聴取経験は記憶という観点でどのように結びついているでしょうか。
次稿では,こうした切り口から「中毒性のある曲」の謎を解剖してみようと思います。
司馬 康
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