東大附属学校 アウトリーチ
2021年10月9日 発表
東大教育学部附属中等学校で「医学×芸術~私たちの身体が医学と芸術を繋ぐ〜」と題したアウトリーチ活動を行いました。医学生がアート作品の制作段階にコミットする機会はいまだ十分ではなく,その練習という意味ではAMSSメンバーが今回の活動から得たものは非常に大きいと思います。準備に携わった中学生の皆さんにとっても,医学と芸術の意外な関係について知る貴重な機会になったようです。ACUTを介したAMSSと東大附属学校の相互交流は今後さらなる発展が期待されます。
メンバーによるレポート
"アートを総体として捉えてはじめてアート研究となる"
チャレンジ・アシスト・プログラムにおける対外展示(1) の延長として,今回は東大教育学部附属中等学校へのアウトリーチを行った。この学校は芸術に強い関心を持っており,生徒が主体となって芸術祭実行委員会を運営している。現在は東京大学芸術創造連携研究機構(ACUT)と連携しながら「一流を再考する芸術の交差点」をスローガンに掲げた芸術活動を行っている。AMSSとコラボした芸術活動は今回が初めてだ。
藝大デザイン科の高杉さんが制作した身体・触覚をテーマとした作品(以下「高杉作品」)を展示するだけでなく,身体感覚・触覚について医学生と来場者が一緒に考えを深めるワークショップの場も用意した。「前半:ワークショップ,後半:作品鑑賞」という順序は意図的である。美的経験には「感受性」を洗練させる学習が必要だとよく言われる。高杉作品が美的経験を用意するものであるということを前提にするならば,高杉作品が喚起する異様な感覚に辿りつくためにはやはり感受性の学習が必要になると思われる。より具体的には,身体感覚についての感受性である。高杉作品は--少なくとも筆者にとっては--身体感覚をテーマにした作品であるという文脈がなければ,かなり感じ方が変わってくるだろうという印象がある。さらには,身体感覚についての医学的理解(あとで詳述)がなければ,あの感覚は味わえないのかもしれない。そういう背景もあって,作品鑑賞の前に少しでも来場者の「感受性」を高めるべく,来場者を医学生主催のワークショップに参加させることにしたのである。
ここで,次のような疑問があろう。「身体感覚は誰しもが日常的に感受しているのだから,既に十分な感受性を有しているではないか?それをワークショップによってさらに高めるということは本当に可能なのか?」たしかに,典型的な知覚的学習というのは,おおよそ固定的なものだ。ふつう知覚の学習は,刺激を感受した直後から始まり,そのまま学習が進んでいくと,どういった対象を前にしてどういった知覚がなされるかがおおよそ決まってくる。それ以降学習を積んだところで,知覚が大きく変わることはないだろう。もともと赤に見えていたものが,何らかの学習の結果として青に見えるようになる,などということは(特殊な疾患にかかっているのでもない限り)起こりそうにない。しかし,ここで注意しないといけないのは,典型的な知覚的学習と美的経験のための学習は根本的に違うということである。結論からいえば,美的経験における感受性の学習はより柔軟なものである。音楽を例にとってみよう。もともと好きではなかった音楽を,何らかの学習の結果として好むようになる,というのは音楽を日常的に聴く人にとっては日常茶飯事である。音楽の感受性は人生のあらゆる場面で移ろい,決して固定的なものではない。それと同じで,高杉作品における感受性もワークショップにおける学習を通して変化するということは十分ありうる。
さて,「知覚的学習」と「感受性の学習」にこのような違いが生まれるのはなぜなのだろうか。いわゆる情動主義をとる哲学者のなかには,両者の違いを情動の有無によって説明できると考える人がいる。知覚的学習において情動をもつ必要はないが,感受性を学習するためには情動が介在しなければならない。この文脈にのっとって,我々のワークショップに通してなされる学習が「感受性の学習」の方に属すると言える根拠は,本ワークショップが身体反応(情動の必須要素の一つ)に焦点を当てている点にある。情動と身体反応の関わりについては,こちらを参照されたい。
ワークショップで扱った内容を具体的に紹介しよう。
まずは触覚の医学的解釈を共有した。もっとも重要な点は,触覚のなかには文字通り「触」れていなくても感じ取れる感覚があるということである。これを内受容感覚という。「お腹が空いた」「心臓がドキドキする」は内受容感覚の例である。一方,「机が固い」「ガラスの表面がツルツルしている」などは外受容感覚として分かる。外受容感覚よりも内受容感覚の方が情動との関連が深い。「心臓がドキドキする」だけで「目の前の女性に魅力を感じる」ことを鮮やかに示したダットン&アロンの吊り橋効果の実験を思い浮かべてほしい。神経科学的には,島皮質を中心とするSalience network(情動に深く関与することで有名な脳ネットワーク)が内受容感覚の状態変化の気づきに寄与していると考えられている。内受容感覚を処理する神経回路についてはこちらの「ASDと感情障害」の項も参照されたい。
次に,触覚が視覚と協働する事例として「次元」の認知をとりあげた。人間の目は3次元の物体を2次元情報として取り入れており,この次元のズレは「逆光学問題」として長い間多くの科学者たちを悩ませてきた。その突破口として,視覚と触覚が協働している可能性について考えた。なお,この議論を通して多感覚統合に興味をもった来場者は,映像と音楽とから構成される高杉作品を前にしても,多感覚統合を意識的に経験することになっただろう。作品鑑賞中に「感覚についての新たな気づき」を得られたとアンケートにて回答した来場者は,多感覚統合に関する何らかの気づきを得た可能性が高い。その証拠に「映像だけを見て感じたり、音を聞くだけで感じるのもやってみたかった」という声があった。おそらくこの方は,映像と音を頭のなかで統合するがゆえに独特の感覚が立ち上っている可能性に気づいたのだろう。
さらに,知覚の無意識性についても議論を行った。高杉作品は,本来的に無意識の領域にある知覚を,意識の領域に引きずり出すことを狙っている。この点をしっかり来場者に説明することは,ワークショップを「知覚的学習」から「感受性の学習」へと飛躍させるうえで非常に重要なポイントである。そもそもなぜ知覚がなぜ本来的に無意識なのかといえば,繰り返しになるが,知覚的学習がおおよそ固定的なものだからである。どういった対象を前にしてどういった知覚がなされるかが確定してくると,脳はその知覚を自動化し,無意識の領域へと追いやる。エネルギー効率を考えれば合理的なシステムだ。しかし,来場者が作品鑑賞を経てもこうした知覚的学習の範疇から脱出できなかったとすれば,身体・触覚をテーマとした高杉作品は失敗に終わったと言わざるをえない。それを回避するために,美的体験において身体感覚の意識化が重要であることをワークショップ内で強調した。そして実際に特定の感覚が意識されたとき,それは高杉さん自身の言う「違和感」のある触覚に相当するのだろう。先述のように芸術の感受性は人生のあらゆる場面で変化するわけだが,人間はその「変化」した対象に「違和感」を覚えるからこそ「意識化する」することができるのである。
最後に,来場者アンケートを分析して興味深かったポイントをいくつか抜粋して載せる。(来場者は東大附属学校の生徒と親御さんである。生徒を「子世代」,親御さんを「親世代」と表記することにする。)
・作品鑑賞中の「触っている感覚」の程度について
親世代の平均が1.9(/5),子世代の平均が3.3(/5)で,統計的に有意な差があった。
芸術への慣れ親しみ方がこの差に影響したのかを調べるために,「芸術は好きか」という項目で有意差をみたが,両世代で有意な
差は認めなかった。
・作品鑑賞中の「感覚についての新たな気づき」について
親世代の平均が3.8(/5),子世代の平均が3.7(/5)で,統計的に有意な差は認めなかった。
作品鑑賞中の「触っている感覚」の程度については有意差があったのにもかかわらず,こちらは両世代が同じくらい「気づき」を
得ている点が面白い。
・ワークショップについて
「分かりやすさ」の平均が4.3(/5),「面白さ」の平均が4.3(/5)で,一定の成果があったと言えそうだ。
各人の科学の捉え方がワークショップの印象にも影響を与えていると予想し,「科学は好きか」と「ワークショップの面白さ」と
の相関を調べてみたところ,やはり正の相関が見られた。
・「芸術と科学はどのくらい離れていると思うか」について
この質問は,イベント参加前と参加後の計2回データをとった。参加後が参加前より0.3(/5)小さいという結果が両世代について
得られ,これは統計的に有意な差であった。イベントに参加したことで芸術と科学の結びつきをより感じられるようになったと
言える。
ここに抜粋したものだけでも,鑑賞者の背景や属性が作品の解釈を左右しうることが分かる。主観報告データを採る際に考慮しないといけない因子がいくつかあるようだ。
ただ,「作品の解釈」といっても,それは作品が一つの総体として鑑賞されるときに限った話である。高杉作品を線分や明るさといったモジュールに分解してしまった状態では,鑑賞者の背景や属性によってコロコロ解釈が変わるということは考えにくい。やはり総体としてのアートでなければならない。アートがアートとして認知されている保証がなければ,作品を使ってデータをとる意味がないのだ。作品に様々な編集を加えた結果,それが万が一アートとして認知されなくなったとき,主観報告の解釈はまるっきり変わってしまうし,今回のワークショップの意味も消滅してしまうわけである(ワークショップの前提として「高杉作品は美的経験を用意する」点を認めていることを忘れてはならない)。ここは注意に注意を重ねないといけない部分である。何をもってアートとして認知されるのか,これは非常に難しい問題だ。だが,プロジェクトの継続のためには避けては通れない問題だろう。
東京大学医学部6年 司馬 康
註
1) 2020年12月に行った「脳で触る」アートプロジェクトのことを指す。触覚を直接刺激せずに視覚情報のみで触覚を惹起することを目指したアート作品を展示すると同時にワークショップを実施した。プロジェクトの詳細はこちら。東京大学芸術創造連携研究機構(ACUT)の発足シンポジウムでも紹介の機会をいただいている(動画はこちら)。