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視覚と芸術グループ

エリック・R・カンデル(著)『なぜ脳はアートがわかるのか』を精読し医学・音楽・絵画の専門的立場から批判的に検証することから始まった通称「カンデル輪読会」。現在は,代表的な芸術作品を分析することで脳の視覚情報処理に関する仮説を立てるとともに,既存の神経科学的知見を芸術の理解や制作に応用することを目指している。
以下に,我々がこのグループを創始するきっかけとなったアートと音楽に関する思索を書きつづってみたい。

我々は,芸術の二大分野である「アート」と「音楽」の接点を探っています。これまで,前者は空間芸術,後者は時間芸術として別々の道を歩んできましたが,実は歴史を遡ってみると,両者には深い繋がりがあったことが明らかになります。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラスコー,アルタミラをはじめとして,人間の祖先が洞窟に絵画を描いたことはよく知られています。1994年には,今まで知られていた中では人類最古のものであるショーヴェ洞窟画が発見され,そこに描かれている数多くの動物の姿はリアリズム絵画としても完成度が高いものであったため世界を驚かせました。なぜ,人間は洞窟画を描こうと思ったのかーーこの謎をこれまで多くの研究者が追究してきましたが,1988年,フランスから,洞窟画の成立に関する斬新な見解が提唱されました。(1)  それは,壁画のある洞窟における音響調査の報告でした。絵画洞窟については,この調査以前にも,描かれた場所が単なる人間の生活の場ではないことが分かっていました。というのも,絵画洞窟には生活の痕跡がほとんどなく,我々の祖先は,日常生活とは無縁の空間に「ただ描く」という目的のために入っていったように見えたからです。先述の音響調査も,洞窟画の真の意義を探ることの延長線上にあったものでした。その結果分かったのは,絵が描かれている場所のほとんどが音響効果の優れた場所であり,逆に音響効果の優れた場所にはたいてい絵(をはじめとする何らかのマーク)が存在していたということです。特に反響が多い音域を調べてみると,絵や印のある場所では,バスからバリトンの音域の男声を中心とする音楽が営まれていた可能性が示唆されました。(2)  調査メンバーの一人であるDauvoisは,これらの洞窟画が描かれた時代の楽器に関しても詳細な調査を行い,洞窟内に豊富に存在する鍾乳石や石筍が,指で弾いたり手や棒で叩いたりすると楽器として使えることを指摘した上で,これを石琴(lithophone)と呼びました。(3)  彼は,これ以外にも様々な楽器を使って「歌う」行為が絵画洞窟で営まれた可能性があると主張しています。さらに,見つかっている洞窟の中にはシャーマンが楽器を鳴らしながら踊る姿が描かれたものもあることから,音楽と同時にダンスが踊られていたのではないかとも考えられています。

それでは,洞窟画の前で営まれた音楽は,いったい何のために演奏されたのでしょうか。多くの研究者は,先述の洞窟画の中に時々現れるシャーマンの存在を根拠に,「祈り」が目的であったと考えています。(4)  すなわち,そこではシャーマンの主導の下に,石琴などの楽器を用いた音楽に合わせて歌ったり踊ったりしながら,ヒトの能力を超越した畏れ多き自然に対して祈りが行われていた,と考えられるのです。洞窟画が描かれた時代,ヒトは自然災害や外傷などの様々な厄難と闘いながら狩りを行い獲物を探し回っていたと思われますが,狩りを阻むそういった厄難を取り払う行動として,「祈り」があったのではないでしょうか。そして,その「祈り」は,今日的な意味での宗教の原型であったという見方もできるでしょう。

 

今日アートと呼ばれる行為,すなわち絵画,音楽,舞踏の全ては,その起源に人間の集団的社会行動としての「祈り」を持っていたということを,ここまで見てきました。その後,各アートはそれぞれ独自の発展を遂げて現在に至るわけですが,その過程でもやはり,異なるアート間に深い交流があったーーそしてその背後で宗教が大きな影響力を持っていたーーことは論を俟ちません。我々は特に絵画と音楽の関係に焦点を当て、Eric R. Kandel(著)Reductionism in Art and Brain Science: Bridging the Two Cultures を土台とした勉強会を行っていますが,この著作の中でも現代絵画の発展に音楽が決定的な役割を果たしたことの証拠が示されています。

 

画家は,抽象芸術に移行するにあたって,自分の制作する絵画と音楽のあいだに類似性を見るようになる。音楽は特定の内容を持たず,音や時間分割に関する抽象的な構成要素を用いているにもかかわらず,私たちの心を強く揺さぶる。ならば,絵画が特定の内容を持たねばならない理由はあるのか? [...] ボードレールが論じるところでは,私たちが備える諸感覚は,おのおのが限られた範囲の刺激に反応するが,より深い審美的レベルでは,すべての感覚が,互いに関連し合っている。その意味でも,最初期の真の抽象画家が,抽象音楽の開拓者であったアルノルト・シェーンベルク(1784-1951)によって描かれたという事実はとりわけ興味深い。

                                                             高橋洋(訳)『なぜ脳はアートがわかるのかー現代美術史から学ぶ脳科学入門』

 

ノーベル生理学・医学賞の受賞歴を持つ Kandel による本書は,脳神経科学の知見を芸術の認知の理解に援用することをテーマにしながらも,脳科学以外の知見も豊富に取り入れて議論するという,その「領域横断性」において極めて優れた著作であると言えます。原書の副題 "Bridging the Two Cultures" で言う Two Cultures「二つの文化」が意味するところは「科学」と「(芸術・文学を含む)人文文化」ですが,本書はまず,人文文化の一分野である芸術を科学の一分野である大脳生理学の立場から捉えようと試みた本だと言うことができます。しかしそれに止まらず,本書では,芸術の立場から脳科学を捉える可能性についても触れられており,たとえばノーベル賞受賞のきっかけとなった記憶研究の中で用いたアメフラシ(海のカタツムリ)という生物に言及して,「実のところ,還元主義的分析にカタツムリが有用であることは,すでにアンリ・マティスによって示されていた」と述べています。こうした記述は,絵画から脳科学研究のヒントが得られる可能性があるという,極めて重要な示唆をはらんでいます。

このような「領域横断性」ゆえに,本書は絵画と音楽の接点に関しても様々な洞察を提供してくれ,人間の芸術の受容に対する我々の理解は格段に深まったと感じています。ここで得られた知見をもとに,我々は今後も様々なプロジェクトに取り組み,最終的には,美術と音楽の本質を捉えた新感覚のアートを創出することを目指しています。
 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文責:司馬康(東京大学医学部)

 

1. Reznikoff I, and Dauvois M. (1988) La dimension sonore des grottes ornées. Bull Soc préhistorique Fr  85: 238-246.
2. Scarre, C. (1989) Painting by resonance. Nature 338: 382.
3. Dauvois M. (2005) Homo musicus paléolithicus et Paléoacustica. MUNIBE 57: 225-241.
4. 土取利行 (2008)『壁画洞窟の音 ー 旧石器時代・音楽の源流をゆく』青土社, 東京.

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​ショーヴェ洞窟

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