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ゲノムとアート

このグループでは、生命体におけるゲノムという“遺伝情報の総体”を発想の足掛かりとして、「情報」「他者」「生命」に関する総合的な知を理論と実践の両側から高めていくことを目的としている。ディスカッションを通した学際的な探究を各メンバーと共有し(理論)、各々のフィールドでその出力を試みる(実践)という形態をとっている。基本的には各回にトピックを設定しプレゼンテーションを担当するメンバーをつのる。プレゼン後に意見交換をすることで、これまでの科学により明らかにされてきた領域と、いまだ探究の余地がある領域を明確に共有することができるだろう。以下では、これまでに行われてきた議論の方向性をまとめるとともに、それを受けた筆者・奥村の所感を綴ってみたい。なお私は美術畑の人間で、科学および科学の哲学に興味がありながらも基礎がないためにその面での妥当性を医学生各位に頼りながら、美術作品にその知見をどう活かせるだろうか、という方向で思考する傾向があることに注意されたい。

グループの沿革

 本グループ発足のきっかけは、私自身の『いのちのなまえ』(2019)という作品でDNAをモチーフにしたことだった。この作品では、人間のDNAシークエンスデータをA,T,C,Gの4種類の文字になおした文字列を大きな紙に印刷し、文字列を一行一行カッターで割くことにより、「視覚的に遺伝子配列が交錯する」という風景をつくることを試みた。このような行為の背景として、「生命という不思議で定義しがたいものを、科学の知見を参考にしながら作品にできないだろうか?」という動機があった。さらにそのテーマの裏には、一人の美術家としての問題意識のうちに、定量的/他者的/論理的な要素から影響を受けず内的な/感覚的な/感情的な動機のみで完結してしまう作品づくりのプロセスから脱出したい、という思いがあった。現代美術の分野では、コレクティブ(集団)アーティストの活躍は近年めざましいものがあるが(2022年ヴェニス・ビエンナーレ日本代表のDumb Type, 2020年横浜トリエンナーレのキュレーションを務めたRaqs Media Collective, etc.)、彼らのような「他」を創造のプロセスに取り入れる方法は、文系・理系・美術系の敷居をまたいだ分野横断的な制作を自分にできる範囲で実現しようという意志のあらわれとも言える。そんなモチベーションを持ってゲノムグループは始まったが、出自や活躍の分野の異なるメンバーからの様々な情報提供を経て、私自身の興味は科学哲学、および現代知覚理論などに変遷していった。しかし、このグループという場の各メンバーによる多様な活かし方を期待したいため、「ゲノム」に限らない様々なトピックを話し合えればと思っている。

過去のディスカッション

第1-3回:情報とは何か?生命とは何か?

 初回から数回の議論は、ゲノムとは一体何なのかという基本的知識の共有から始まった。私たちの細胞核にしまいこまれているDNA(デオキシリボ核酸)という構造には32億対ほどの塩基配列がズラリと並んでいるが、そのうち「ゲノム=遺伝情報」として実際に使用されるのはほんの一部でしかない。RNAポリメラーゼという読み込み機械が特定の部分のDNAを「情報」として認識し、その出力としてmRNAおよび最終的にはタンパク質を作るという行為において、ある「記号」とその「翻訳」が存在していると言える。地球における原始生命から考えれば生命の自己複製の様相は多大な進化を経ているが、それを「イコン→インデックス→シンボル」という3つの記号の種類に分類することができるのではないか、という提案である。これはアブダクションという推論の新たな手法を提唱したことで有名な哲学者、アレクサンダー・パースの記号分類に基づいている。

 この議論を通じて、「情報」が存在しうるためにはその「解釈者」の存在が要請されることが明らかになった。また、解釈者は「外から」情報を受け取り「内側」で解釈(翻訳)し、場合によっては再び「外側」に出力をするという図式にある。その時、内と外の境界、細胞でいえば細胞膜はどの段階から境界として機能してきたのか、また理念的にはどのような他の次元の境界が「秩序」である生命と「無秩序」である外界を分けていると言えるのか。これらの疑問点がいまだ簡単には答えを決め難いものとして残された。

 『いのちのなまえ』に適用して考えてみれば、この作品の鑑賞者はリボソームとして働いていると言えるのかもしれない。紙に印刷されたDNA配列は実在するものを元にしているが、いくつかのコドン(3塩基ごとに読み込まれるDNA/RNAの単位)をYOU”だとかARE”といった3文字の英単語に置き換えた、部分改変されたものになっている。すなわち、偶然によっては人間が文章の一部として読み込み可能なものになっている。読み込みを試みる鑑賞者は、その無味で意味不明な文字列の中に自分の知っている「記号」があらわれた時、文字列全体を単なるジャンクではなく翻訳されるべき「情報」(しかし自らはまだ完全に解読できないもの)として認識することができるのだろうか。そのような体験を取り込み、感想や連想がアウトプットされた場合、それはタンパク質のような「翻訳結果」であると比喩することもできる。この図式はどのような形態の作品であってもそれが作品である限りは共通することだと言えるが、DNAの配列というモチーフを使うことでより自覚的な翻訳行為についての思考を促せるのではないだろうか。

 また、第三回では早稲田大学の生命美学研究者・岩崎秀雄教授の『生命とはなんだろうか』(講談社現代新書)を叩き台に、気軽に「どんな条件がそろえばそれを生命と呼ぶことができるだろう」といったことを話し合った。

 

第4回:ドローイングと木構造

 この回では、酒井邦嘉『チョムスキーと言語脳科学』(インターナショナル新書)で紹介されている内容と私自身のドローイングをつなげてみる試みを行った。言語学を自然科学として研究する大元を作り上げた「生成文法」の提唱者、ノーム・チョムスキーの言語統辞論で理解の鍵となる木(ツリー)構造の模式と、元は文章だった文字を分解して再構成した線と点からなる『分解のドローイング』という自身の作品シリーズを絡めて話をした。生成文法の大まかな方針として「人間には生得的な文法規則が存在する」というテーゼがある。つまり F=ma のような自然法則と同様に言語の法則も分析されうるという主張である。これはいわゆる一般に流布している「言語は人間が世界を捉えるために開発した道具である」といった認識とは異なる理解である。言語学の中でも現在進行形で議論が絶えない分野であるため一概にその正当性を評価することはできないが、私は自然科学として言語まで分析の対象に含めるという姿勢に魅力を感じた。本書の中では実験で明らかになった失文症に関する事例などの分析が展開されている。ドローイング作品において、私は「言語を分解することで、どこから意味が失われるのか」「どこから意味が始まるのか」という点について議論を喚起できたらと考えていた。チョムスキーの唱える生成文法において文の意味は(生得的な)文法とは独立であるとされるが、ドローイング中の分解された文字が「意味の失われた構造」=文法と読み替えられるとしたら、カオス(に見える構造)こそ生成文法の視覚化であるとは言えないか、といった実践になっている。

 

第5回:自己とは何か?

 第1-2回で提起された問題、「自己とは何か」を、哲学的に分析することを試みた。また、この分析が生物学における具体的な議論とどう接点を持ちうるかが話し合われた。

 元となる本は精神医学者の木村敏による『からだ・こころ・生命』(講談社学術文庫)。本書に特徴的な木村による「自己」の定義は、日常的に考えられるような「認識論的主体」(=環境を認識し行動する主体、身体によって外部から隔てられている日常的な意味でのわたし”)の枠に止まらない。複数の認識論的主体が関係するその間、関係自体こそが「自己」の本質的な定義である、という視点から議論が進められる。

 木村はその関係自体のことを「相即」と呼び、明瞭な区別のために、主体である関係自体のことを「相即的主体」と呼んだ。

 この視点において、相即を生み出す複数の存在は、一人の人間といった個体のレベルには止まらず、組織、集合間と個体でもあり得る。個人とそれが属する社会の相即、この公園のカラスの群れとあの公園のカラスの群れの相即といったものが可能であり、それを主体として捉えようというのが木村の議論である。

 

第6-8回:知覚と感覚の哲学的分析

 第6回ではマルクス・ガブリエルの『私は脳ではない』の冒頭部分の紹介があり、そこで語られる唯物論的自然主義と、それを否定する哲学者としての筆者の意見が検討された。

また、第7-8回では、野矢茂樹『哲学・航海日誌』の紹介、そこで展開される他者論・心とは何かという問題の分析が議論された。

 哲学の領域から科学を批評する際、それが科学で知りうることの限界線を引こうという試みであることは常に共通している。例えば『私は脳ではない』という著書名が直接的に示すように、その批判の対象となっているのは脳神経科学の成果によって脳機能を脳構造へと還元することが「心」や「私」を最終的に解き明かすことであるとする、唯物論的自然主義である。また、野矢の議論においても、「知覚二元論の誤り」として、いわゆる科学実在論が基づくとされる実在—脳—知覚イメージという認識の過程の論理的誤謬を指摘している。

 しかし、このような文脈で批判を受けているのは急進的な科学実在論、すなわち「科学的認証プロセスを経た存在言明」をいつの間にか「実在の証明」にすり替えてしまうような、質の良くない科学の運用方法であるというだけのようにどちらの専門でもない門外漢の目には映る。科学からも哲学からも、「自己」や「心」といった難問にアプローチすることができるが、問題にしている側面が異なるというふうには言えないだろうか?

まとめ ー芸術と科学の共存の仕方ー

 とりとめもなくトピックが遷移して行った各回の議論であったが、根底にあるのは「情報」「翻訳」「生命」「他者」といった概念をより深く理解したいという欲望であると私は思っている。また、「理解する」とは一体なんのことなのか、そもそもそれが議論の対象になるとも思う。つまり理解という行為の条件である。「Aを理解した」という時、Aを「再現/表現することができた」という意味で言われているのか、Aを「既知のB, C, Dの複合として分析した」という意味で言われているのか、はたまたそのどちらとも違う意味なのか。恥ずかしながらこの点の議論が正確にどの分野に属するのかも把握できていないが、芸術の創造/鑑賞、科学理論の想像/応用のどちらにも根本的に関わる点であり、すなわち両者の架け橋になる点でもあると思う。

 芸術作品の場合にはその「意味」の分析は終わることがない。この主張は「作品は見るひと一人ひとりによって/時によって意味が変わる」といった言説もあるように共感しやすいことかもしれない。しかし、論理的には言語における語の「意味」すらも確定することはなく、状況証拠的に「語の意味はその解明=意味関数≒使われうる文脈である」と言われることもある。これは数学を言語とする科学の言明を、再び日常生活に、および物質という「記号ではないもの」に「翻訳」する時にきっと争点になることだと思う。

 芸術作品は、正確にいえば「芸術作品として主張されるもの/こと」は、記号であると同時に記号の前の物質である。もちろん他の多くのものもそうなのだが、その両存の崖に位置するのが芸術であると私は考えている。だからこそ、科学によって拡げられてきた人類による世界の解像度、それを支える哲学によって転覆されてきた世界の理解方法が同時に存在できる一つの「場」になるのではないだろうか。

文責:奥村研太郎(東京藝術大学)

 

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